五章 悪魔契約 ②
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アーニャが連れさられた後――。
ビアスは全身に温かさを感じ、ゆっくりと目を開ける。
最初に、仰向けのビアスの視界に入ったのはテレサだった。
テレサは安心したように、わずかに表情を緩め、
「気がついたか。ミオもついさっき目を覚ましたところだ」
すぐ近くで三角座りをしているミオが見えた。
テレサが付け加える。
「シンクレアも一命を取り留めたらしい。さっき〈グロリア〉に確認したら、そう教えてくれたよ」
ビアスが体を起こそうとするが、上手く力が入らない。
「応急処置だ。安静にしてろ」
周囲に魔力の痕跡があり、テレサはどうやら治癒魔術を使用していたようだ。
瀕死の状態から意識を取り戻すことには成功したが、まだ体力は完全には回復していない。
ビアスはテレサの注意には従わず、時間をかけて起き上がる。
「先生、すみません。アーニャが……」
「いや、私も調査をすぐに終わらせて、お前たちと合流できれば良かったんだが、敵の本隊と交戦していて時間を奪われてしまった」
悔しそうに唇を歪めるテレサ。
「だが、何も収穫がなかったわけじゃない。ワイズマンの狙いは大体分かった」
「本当ですか?」
ビアスは固唾を飲んで、テレサの言葉を待つと、テレサは重々しい口調で、
「おそらく、――黒魔術だ」
黒魔術は禁忌の領域。
隷属契約のような、本来は許されない魔術だ。
「それもかなり大掛かりな儀式召喚魔術だ。必要なものは二つ。一つは巨大な魔法陣の錬成で、広大な場所と大人数の魔術師が求められる」
「校内の魔術師がそうなんですか?」
「いや、あんな雑魚共は儀式には参加しないだろう。魔法陣の錬成に取り組んでいるのは、敵の中でも一部の実力者だけだろう」
確かに校内でうろうろしている魔術師の中には、儀式などできそうもない連中が多くいた。
少し考えれば分かることで、ビアスは、自分はまだ頭が回っていないのだと思う。
テレサが説明を続ける。
「広大な場所というのは、〈アカデミー〉の第二グラウンドだ。広さも魔術的な加護も申し分ない。ここからも漠然とだが見えるだろう?」
ビアスたちがいる一年生校舎の屋上から、目を凝らせば遠くに第二グラウンドがぼんやり見える。
さすがに肉眼ではその細部までは分からないが、地面に浮かび上がる巨大な魔法陣と、点在する魔術師と思われる人影が確認できる。
また、第二グラウンド全体をドームのような形の結界が覆っている。
結界は空間魔術における代表的な術式だが、これだけ広範囲に渡る規模のものは滅多にお目にかかれない。
グラウンドを眺めていたテレサは視線を戻し、
「そして、もう一つの必要なものというのは、莫大な魔力――つまりアーニャだ」
ビアスの表情があからさまに曇る。
ワイズマンはアーニャの中に秘められている魔力を、儀式召喚に利用しようとしている。
苦々しい表情のテレサが、語気を強めて、
「何か問題が起きてから対処するという王室の判断は、完全に裏目に出た。ワイズマンが黒魔術の儀式召喚魔術を発動させようとしているなんて、想像もしていなかったはずだ」
そのとき、屋上の端で倒れていたジャッカルが、おもむろに起き上がった。
テレサがすぐさま〈ポータブル〉を取り出し、ジャッカルを睨みつけながら、
「さっきはこいつらを随分可愛がってくれたらしいな。まだやろうってのか?」
「俺にそんな力は残っていない。ただ、一つだけ忠告してやる。もう諦めろ」
「何か知ってるなら話せ」
テレサが冷たい口調で言うと、ジャッカルは皮肉っぽく口端を吊り上げる。
「俺は何も知らん。だからこそ、現況を客観的に判断することができるというだけだ」
ジャッカルの判断を「間違っている」とは、決して断言できない。
ビアスたちの方でまともに戦えるのはテレサくらいで、敵は儀式に参加するレベルの魔術師が第二グラウンドに大挙して集まっているからだ。
「てめぇ、少し黙れよ」
テレサの表情が一層険しくなり、〈ポータブル〉を操作しようとしたとき、ビアスがふいに立ち上がるのが目の端に見えた。
「お前は人の話をホント聞かねぇな。安静にしてろって言っただろうがよ」
ビアスはテレサの言うことには耳を貸さず、屋上の中央へ覚束ない足取りで移動する。
すると、魔導書を出現させ、突然右手の人差し指の先端を歯で噛み切った。
そして、指先から滴り落ちる血で、屋上の床に二重の円を描いていく。
自らの血液で魔法陣を錬成するつもりのようだ。
これにはテレサもミオも驚きを見せた。
テレサがビアスに近寄りながら、声を荒げる。
「何やってんだ! そんな状態で、自分の血を使うような魔術を使うつもりか?」
古代魔術の中には、自らの血液を触媒にする魔術が存在する。
治癒魔術を施され意識を取り戻しはしたが、本来なら今のビアスの体力では、血を流しながら動き回ることでさえ非常に危険であるのに、生命力と魔力の関係性から言って、魔術を使うなど自殺行為に等しい。
「先生、魔法陣には入らないでください」
ビアスの一言で、あと一歩で魔法陣の外の円に踏み入ろうとしていたテレサが足を止めた。
しかし、それはビアスの意向に納得したというわけではなく、彼の言葉に咄嗟に反応したに過ぎない。
「お前、死ぬ気かよ。狂っちまったのか?」
「酷い言い様ですね。俺は至って冷静ですよ」
へらへらと笑うビアスは、魔法陣の練成をやめようとはしない。
大小の円に五芒星を収め、そこに多種の図形と記号を加えていく。
歩行さえも困難なようで、何度もたたらを踏み、その度に膝をついてしまう。
次第に中断の頻度が高くなり、ついには吐血し、そのまま蹲ってしまう。
ミオを庇ってジャッカルの攻撃を受けた後、強力な魔術を使ったときも自身の体力を酷使したのだが、今のビアスにはそのとき以上の負荷がかかっている。
これ以上の魔力の消費は、本当に命に関わる。
ビアスの様子を見て、テレサが大きな声で叫ぶ。
「もうやめろ! マジで死ぬぞ」
ビアスは呼吸を乱しながらも、再び立ち上がる。
もうまっすぐ立つことも困難だ。
「急がないと、間に合わなくなります。早くアーニャを助けに行かないと」
「その前にくたばっちまったら意味ないだろ! まだ続けるって言うなら、力づくでやめさせるからな」
そう言ってテレサが魔法陣を跨ごうとしたとき、
「お願いです!」
ビアスの必死な叫び声が屋上に響いた。
テレサは思わず足を引き、黙ってしまう。
「もう少しなんです。魔法陣が完成するまで、そこで見ていてもらえませんか」
「私には、お前を見殺しにするような真似はできない」
「先生、俺を信用してください。俺は死なないし、魔法陣も絶対に完成させます。俺はアーニャのところへ行かないといけないんです」
ビアスの決然とした言葉に、それまでずっと無言だったミオが口を開いた。
「テレサ。ビアスの好きにさせてあげて。私はビアスを信じてる」
それを聞いたテレサは困ったような顔になり、口調がわずかに弱まる。
「何をしようとしているのかは分からないが、あの規模の魔術に対抗できるわけがない。現実的な作戦を考えたほうがいい」
「契約はすでに済ませてあるんです。これは借用のための術式です」
「どういうことだ?」
テレサが尋ねると、ビアスはそれには答えず、満足そうに笑った。
屋上の床、ビアスの足下には彼の血で描かれた幾何学模様が出来上がっていた。
魔法陣が完成したようだ。
ビアスが顔をしかめながら、その中央に立ち、詠唱を始める。
「悪の化身、闇の権化、全ての悪魔を統べる存在よ。契約に基づき、その力の借用を希求する」
魔法陣と魔導書が神々しく輝くと、ビアスが最後の台詞を紡ぐ。
「――〈サモン・ルシファー〉!」




