三章 黒魔術師 ⑤
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ドアが開き、買い物袋を提げたビアスが部屋に入ってきた。
「アーニャ、起きたのか。調子はどうだ?」
アーニャは平静を装い、
「随分良くなったわ」
「そっか。良かった」
優しげな表情で、胸を撫で下ろすビアス。
アーニャはそんな彼を見て心の中で思う。
あなたは大丈夫なの?
どこも苦しくない?
どこも痛くない?
ショコラが玄関に向かいながら、
「ビアス。少し外に出てくる」
「あぁ。アーニャ見ててくれてありがとな」
「礼を言われることではない。アーニャは私の友人でもあるのだからな」
「それもそうか。とにかく、後は俺がついてるよ」
ショコラはアーニャに一瞥を送り、部屋から出て行った。
ベッドの側に座ったビアスは、買い物袋からペットボトルの水やカップスープを取り出し、ローテーブルに置いていく。
そして、ペットボトルのキャップを緩め、アーニャに差し出しつつ、
「とりあえず、水。食欲はあるか? スープくらいならいいかと思って買ってきた」
アーニャはそれを受け取り、一口含んでから、
「後で食べる。ありがとう」
アーニャがペットボトルをビアスに返したとき、
「シンクレアからいろいろ聞いたんだろう?」
ペットボトルをテーブルに置いたビアスは、アーニャの答えを待っている。
「うん。黒魔術って、やっぱり危険なものなの?」
黒魔術への畏怖ではなく、ビアスへの心配が、アーニャにそう質問させた。
ビアスは迷うことなく、滔々と語り始める。
事前にどういう話の展開になるか想定していたのだろう。
「黒魔術は、はっきり言って危険だ。古代魔術の中でも非人道的で、倫理的に認められないと判断された術式の総称。中には人の制御の範疇を超えた魔術もある、無秩序な力だ。だから禁忌とされている。〈アカデミー〉の授業でも少し触れられていたが、古代魔術はまだ魔術が系統化され、整備される以前の術式のことで、その雑然としていた術式の数々を分別し、使用許可を得たものを世の中に正しい形で運用させようとして理論化したのが現代魔術だよ。古代魔術から現代魔術への移行は、効率化や汎用化、簡略化が大きな目的だったが、古代魔術の危険な術式を排除するという側面もあったんだ」
ビアスの顔はずっと曇っている。
「黒魔術についてだが、例えば、他者の意識に介入する精神干渉魔術や、死者を操る死霊魔術がある。他には強力な悪性の精霊や使い魔を召喚する召喚魔術、儀式魔術は現代魔術にもあるが、黒魔術の儀式には生贄が必要なものもある。黒魔術の魔導書は禁書扱いで、皇室によって回収され、王城の魔導書庫に厳重に保管されているらしい。グリモア、グリモワール、黒本、黒書、――いろんな呼び方がある。そして、アーニャも知ってると思うが、黒魔術師は異端者とされ、迫害を受けている」
ここまで話し、ビアスが不安そうにアーニャを見やった。
「俺達を繋ぐ隷属契約も、黒魔術の一つだ。やっぱり怖いか? 俺のこと」
ビアスはずっと恐れていたのだろう。
アーニャとの間に絶望的な溝ができてしまうことを。
異端の魔術師であり、禁忌の魔術をかけたビアスに対し、アーニャが恐怖心を持つことは仕方ない。
誰だってそう思う。
ビアスも例外ではない。
アーニャはおもむろに首を横に振り、静かに言う。
「怖くなんかないわ。あなたは私の命を救ってくれた。私はあなたを信じる」
ビアスの表情から緊張が消え、安心したように頬を綻ばせる。
「そうか。良かった」
それだけ呟いて、顔を伏せた。
アーニャは、自分がビアスに対して負い目を感じるべきだと思っていたのだが、ビアスの方がアーニャに後ろめたさを覚えているようだった。
「調子悪そうだったのって、私のせいなんでしょ」
罪悪感が、アーニャにそう言わせていた。
勝手に言葉が出てくる。
「それなのに、私、たいした事ないなんて言って……全然気が付かなくて」
唇をきつく結び、俯いてしまうアーニャに、ビアスは穏やかな口調で、
「シンクレアから聞かなかったか? それは隷属契約の命令のせいだって」
「聞いたわ。聞いたけど、私、わがままばっかり言って――」
消え入りそうな声で言うアーニャ。
今日の放課後のビアスへの態度は、ショコラへの劣等感だけが原因ではない。
ビアスと顔を合わせて、そう気づいた。
あのときショコラが過去に、ビアスに助けられたことがあると知った。
きっと嫉妬したのだ。
命を救ってもらうという運命的とも思える縁に、どこかで優位性のようなものを見出していた。
それが、他にも同じような関係性の少女がいると知ってしまった。
私は特別じゃない。
その思いが、ビアスへの辛辣な態度に繋がったのだ。
その後のこともある。
私はメールを無視したのに、あなたはちゃんと助けに来てくれた。
今日だけじゃない。
いつだって私のところに来てくれる。
初めて会った日も、〈アカデミー〉の入学式の日もそうだった。
ずっと私のことを気にかけてくれてる。
隷属契約の命令を使えば、これまでいくらでも言うことをきかせられたのに、私のことを尊重して、そうしなかったでしょ?
私の記憶を都合の良いように書き変えられたのに、そうしなかったでしょ?
「――ごめんなさい」
張り詰めていた緊張の糸が切れ、溜まっていた感情が、ダムが決壊したように溢れ出した。
エメラルドブルーの瞳から流れる大粒の涙が、ふっくらとした頬を伝い、ぽたぽたとシーツを濡らしていく。
いくら手で拭っても、とめどなく落涙する。
喉が締め付けられて、上手く声が出ず、嗚咽してしまう。
アーニャの顔が苦しそうに歪み、幼い子供のように泣き続ける。
「大丈夫だ」
ビアスがアーニャの小さな頭を優しく撫でた。
大きくて、温かいビアスの手。
こんなときに何考えてるんだろうと思うが、しかし、この手がいつでも私を導いてくれていた気がする。
私の命を救ってくれた。
私を迎えに来てくれた。
心の中で、問いかける。
どうして、あなたはいつも私に手を差し伸べてくれるの?
「アーニャは大丈夫だ」
アーニャがビアスの赤褐色の瞳を見つめる。
こんなときも、自分のことは後回しで、私の心配をしてくれるの?
私は子供みたいなわがままを言って、あなたを困らせてきたのに。
私のことを責めることもせず、怒ることもせず、呆れることもせず、拒絶することもせず、ただ優しく微笑んで、大丈夫だと言ってくれる。
「……私、助けてもらうだけで」
「飼い主がペットを守るのは当たり前のことだ。余計な気遣いするんじゃねぇよ」
ビアスの温かい手と、落ち着いた声を聞いていると、自分でも不思議なくらい気持ちが安らいでいくのが分かる。
「ねぇ、ビアスのこと、もっと聞いてもいい?」
「いいよ」
アーニャが尋ねると、ビアスは短く答えた。
「どうして黒魔術を使うようになったの?」
「じいちゃんが黒魔術の研究をする学者だったんだ。黒魔術は良いイメージを持たれてないけど、使い方を間違えなければ、人の役に立つっていうのがじいちゃんの持論だった。まだじいちゃんが若いときに、古代魔術から現代魔術への転換期を迎えた。黒魔術の術式が載っている魔導書は帝国によって回収されていく中、じいちゃんは所有していた黒魔術の魔導書と研究成果を持って帝国内を転々と逃げ回りながら、研究を続けた。ときどき俺を逃亡先の研究部屋に招待してくれたんだ。そこには多くの黒魔術に関する文献や資料があった。俺が小さいときにじいちゃんは捕まって、研究成果は燃やされ、魔導書を含む関連書籍は全部没収された。ただ、この一冊を残して」
ビアスの左手に魔導書が出現する。
「じいちゃんは幼かった俺に、この魔導書を託した。それが、俺が黒魔術を覚えたきっかけだよ」
魔導書の裏表紙を開くと、そこに「ビアス・ビルシュタイン」と書かれている。
「現代魔術は〈ポータブル〉で魔術を発動させるから、魔導書なんていらないだろ。だからよく分からないかも知れないけど、魔導書に所有者の名前を書くことで、その二つがリンクするんだ」
「中、見てもいい?」
「いいぞ」
アーニャは最初のページからめくっていく。
ビアスが魔導書を覗き込みながら、
「黒魔術だけの魔導書ってのもあるらしいが、これは単に古代魔術のページもある。帝国は黒魔術の術式のページがあれば、すべて禁書にしてるみたいだ」
「なんで白紙のページがあるの?」
アーニャが疑問に思った通り、ところどころ何も書かれていないページがある。
「まだ魔導書と信頼関係が結べてないんだ。だからページが抜け落ちてるんだよ。俺が魔術師として成長する度、白紙にルーン文字やら魔法陣やらが浮かび上がってくる」
「ビアスはこのまま黒魔術を覚えていくの?」
「そうだな。せっかくじいちゃんから受け継いだ魔導書だし、ちゃんとページを取り戻して、自分のものにしたいな。だけどそれはあくまで足がかりだ」
「足がかり?」
「あぁ。黒魔術だけ究めるなら、現代魔術を学ぶ必要はないだろ? 〈アカデミー〉じゃ古代魔術の評価体系なんてないし」
「確かにそうね」
アーニャは軽く頷いた。
ビアスの言う通り、黒魔術の道を精進するのなら、古代魔術を過去のものとし、現代魔術のみを教える〈アカデミー〉に通うのは無意味だ。
「俺は現代魔術にも興味があった。だから〈アカデミー〉に入ったんだ。じいちゃんは黒魔術の研究だけに没頭してたけど、俺は古代魔術も現代魔術も、両方とも学びたい。俺はまだまだ魔術がどんなものか分かってないと思う。だから、学問としての魔術を一から勉強して、魔術を人の役に立てる研究をしたいんだよ。と言っても、古代魔術のセンスはそこそこあったみたいなんだが、現代魔術の才能はどうしようもなかったんだけどな」
ビアスは困ったように笑った後、
「アーニャはなんで魔術を勉強しようと思ったんだ?」
アーニャが神妙な面持ちで答える。
「私は田舎町で、ずっとお母さんと二人暮らしだったの。何にもないところで、この国では珍しいと思うんだけど、生活の中に魔術がほとんど馴染んでなかった」
そこまで言って、アーニャの表情が明るくなり、
「私がまだ小さかった頃、私の町に若い女の魔術師がやって来たの。彼女は帝国内を旅してると言ったわ。優秀な魔術師で、特に治癒魔術が得意だった。魔術医師免許を持っていて、旅先で怪我や病気をしている人を治して回っているらしかった」
アーニャが熱っぽく語る。
「私はその話を聞いたとき、これしかないと思った。私もこんなふうになりたい。別に治癒魔術にこだわるつもりはないの。ただ魔術を使って多くの人の役に立ちたいって思った」
「そうか。それは頑張らないといけないな」
ビアスの顔が自然と綻んだ。
「ビアス、あのね」
アーニャはおずおずと切り出した。
初めて聞いた、ビアスの志。
今まで漠然としていた道標が、明確に示された気がした。
「何だ?」
ビアスがアーニャの次の言葉を待っている。
アーニャは掛け布団をぐっと引き上げ、顔の上半分だけ出して、ビアスを上目遣いに見つめる。
特別じゃなくてもいいの。
あなたがいれば、頑張れる気がする。
内緒の話をするように、しかし決然とした口調で言った。
「私はビアスの隣を歩きたいの。だから、そのために頑張ろうと思うの」




