三章 黒魔術師 ④
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アーニャが目を開けると、見慣れた天井が見えた。
自分がビアスの家のベッドで横になっているのだと分かる。
「アーニャ、大丈夫か?」
心配そうな顔つきのショコラが視界に入った。
「うん。大丈夫」
首を傾け、窓の外を眺めると、すっかり夜の帳が下りていた。
どれくらい眠っていたのだろう?
掛け時計を見ると、夜の十時を回っている。
「私は……」
自分の身に起こったことを思い起こそうとする。
最初はぼんやりとしていたが、次第に断片的な記憶を思い出す。
私は確か実技室にいて、突然黒いローブの魔術師たちに襲われたんだ。
そこをミオが助けに来てくれたけど、私を守って氷漬けにされた。
それから、ビアスとシンクレアとテレサ先生が現れて、ビアスに逃げるよう言われたけど、私はそれを断って――。
その後のことは曖昧模糊にしか覚えていない。
本当に漠然としていて、まるでピントのボケたレンズみたいな、輪郭が溶けてしまっている感じだ。
無意識に走りだし、最初にいた実技室から最も離れた校舎の教室の教壇の中で蹲っていた。
ドアが開く音がして、ビアスの声で名前を呼ばれたとき、心底安心したことだけは、はっきりと覚えている。
その直後、強い睡魔が訪れ、引きずり込まれるように眠りに落ちた。
「私がいなくなった後、どうなったの? 皆無事なのよね?」
ショコラは顔をしかめ、
「うん。だが、あの魔術師たちには、逃げられてしまった。私たちは勝てなかったのだ」
戦うビアスの姿を思い出す。
彼は魔術を使用していた。
魔導書を片手に、魔法陣の錬成と呪文の詠唱で魔術を発動させていた。
補習までやったのだから、知っている。
あれは、古代魔術だ。
そう言えば、背の高い方の魔術師がビアスについて何か言っていた。
黒魔術師。
そうだ。
確かに黒魔術師と言っていた。
アーニャは静かに尋ねる。
「ビアスは? どこ?」
この部屋には、アーニャとショコラしかいない。
「買い物に行っている。アーニャに食べさせるための食事だ」
「そうなんだ」
本当に聞きたいことはこれではない。
アーニャはショコラを見据え、意を決した。
「シンクレアは知っていたんでしょ? あいつが黒魔術師だってこと」
ショコラは小さく首肯する。
「今日の放課後、教室で、以前ビアスに助けてもらったと言っただろう?」
「うん。去年の八月でしょ?」
「そうだ。それは、私が〈グロリア〉に所属した時期なんだ。当時の私は入隊できたことが嬉しくて、とても張り切っていた。それで、無茶をしてしまったんだ」
視線をベッドのシーツに落とすショコラ。
「パトロールの最中、三十人くらいの規模の強盗に遭遇したんだ。私は二人で行動していて、一緒にいた先輩の隊員は、自分たちの力では制圧するのが難しいから、支部に連絡し、応援を待とうと提案した。しかし私は、突入を選択した。自分の力を過信していて、何とかなると思ったんだ」
その声には、悔恨の念がこもっている。
「だが、先輩の言った通り、どうにもならなかった。私は敵に捕まってしまった。そこにビアスが現れたのだ」
アーニャもビアスと出会ったときのことを思い出していた。
叩きつけるように降る大雨と、冷たい土の感触と、神秘の光、そして真剣な彼の声。
「ビアスはあっという間に強盗たちを倒してしまった。そのときに知ったんだ。ビアスが古代魔術師であり、かつ黒魔術師でもあると」
「黒魔術師って、帝国に囚われてるのよね。シンクレアは何もしなかったってこと?」
「本当であれば、然るべき機関に報告するべきだ。だが、私はそうしなかった。実は今回のことも、テレサ先生に露見してしまったのだが、私とビアスで秘匿してもらうよう頼んだ。私はビアスを信じている。ビアスは自分の力を悪用するような男じゃない。それはアーニャもよく分かってるんじゃないのか」
ショコラの言うことに、アーニャは妙に納得してしまう。
それはたぶん、黒魔術のことはよく知らないが、ビアスのことならそれよりは分かっているつもりだから。
ショコラは言い辛そうにしてから、
「アーニャはビアスと隷属契約を結んでいるのだろう。ビアスから聞いたよ。共同生活をしているのも、それが原因らしいな」
申し訳無さそうに目を伏せた。
アーニャの秘密を知ってしまい、負い目があるからだろう。
しかし、アーニャが怒ったり、苦しんだりすることはない。
もう、ショコラも巻き込んでしまっている。
彼女には、知る権利がある。
「従兄弟だなんて、嘘ついててごめんね」
「そんなことはいい。それよりも三月末に、瀕死の状況に見舞われたそうだな」
「うん。それでビアスが助けてくれたの。隷属契約でビアスと私を繋いで、生命力を私に渡したんだって」
ショコラが逡巡し、一拍間を置いてから、
「隷属契約についてビアスから聞き出したのだが、それはそのときだけの効果ではないらしい」
「どういうこと?」
「隷属契約は契約魔術に分類されるものなんだそうだが、その契約魔術とは、もともとかなり上級魔術らしい。そもそも黒魔術というのは危険な術式が多く、体にかかる負荷も大きい。件の隷属契約も、術者にはとてつもない負担がかかる術式のようなのだが、それとは別に、術者、つまり支配者は配下に常に魔力の供給を行うような状態になるらしい」
「それって――」
深く頷くショコラ。
「ビアスはただ毎日生活するだけでも、相当な負荷を体にかけていたことになる。ビアスの調子が悪かったのはそのせいだ」
アーニャは言葉を失ってしまう。
ビアスの疲弊は、全部自分のせい。
……気づけなかった。
それどころか、私は――。
「アーニャがその違和感に気づけないのは仕方がないことなのだ」
「仕方なくなんかないわ!」
自責の念にかられ、大きな声を出してしまうアーニャに、ショコラが冷静に聞く。
「実技室を去るとき、足が無意識に動いた感じはなかったか?」
アーニャには心当たりがあったため、昂っていた感情が急激に下がった。
「……うん、体が自分のものじゃないみたいだった」
あのとき、確かに意識が遠のき、全身が自分の制御から外れ、他人のものみたいに勝手に動いた。
「それも、隷属契約の一つの効力だ。支配者は配下に命令をすることで、服従させることができる。配下の意識や思考など関係なく、絶対的に、隷属させる」
「そんな……、ってことは――」
今までいくらでも私にあんなふうに命令して、言うことを聞かせることができた。
ショコラが慰めるように、ゆっくりとした口調で、
「違和感に気づけなかったのは仕方ないと言ったが、それは今話した隷属契約の効力の範疇だからだ」
「ビアスが私に何か命令をしていたってこと?」
「そうだ。ビアスはアーニャと隷属契約を結んだ日に、二つ命令を下している。一つは、隷属契約について調べないこと。もう一つは、命令を下しているその間の記憶を失うことだ。隷属契約は現代魔術には存在せず、アーニャがそれについて調べれば、必ず黒魔術に行き着くため、その必要があった。ここからは私見になるが、共同生活するにあたって、アーニャの記憶を全て書き変えることもできたはずだ。例えば、二人が親類関係だという記憶を上書きしてしまった方が簡単だ。しかし、それをしなかったのは、アーニャのこれまでの記憶や思い出を消去させるような真似をしなくなかったからだろう」
ショコラが言ったことだけじゃない。
すぐ思いつくのは、ビアスと初めて会った日。
隷属契約のことを聞いて逃げ出したアーニャを無理に引き留めることだってできたのだ。
でも、ビアスはそれをしなかった。
きっと他にも気づいていないだけで、いくつもの彼の優しさに守られているのだろう。
ねぇ、どうして?
聞くまでもない。
私のことを一番に考え、尊重してくれているからだ。
沈黙するアーニャに、ショコラが気遣う声色で、
「つまりアーニャは無意識の内に、隷属契約のことを考えることを制御されていたのだ。だから、ビアスの異変に気づけないのは、仕方がないことだったのだ」
依然として、口を閉ざしているアーニャ。
仕方がなかったからと言って、わがままだった自分を許せるほど、自分に甘くはない。
「そろそろビアスが戻ってくる頃だろう。言いたいことがあるなら、直接話すのがいい。ビアス本人以外には聞かれたくないこともあるだろうし、帰ってきたら私は外に出ている」
アーニャはゆっくりとベッドから起き上がる。
「起きて大丈夫なのか?」
「大丈夫よ」
わずかに眩暈がしたが、今どうしてもショコラに伝えなければならないことがある。
「あの、ありがとう。私ね、シンクレアのことが羨ましいの。私に無いもの、全部持ってるの。ちゃんとは覚えてないんだけど、あのローブの魔術師たちと戦ってるときのビアスの気持ちが、私の中にちょっとだけ残ってる。たぶん隷属契約のせいだと思う。ビアスはすごくシンクレアのことを信頼してる。シンクレアなら自分の命を預けても大丈夫と、ビアスは思ってる。私も、そういうふうになりたいの。ただ守られてるだけじゃなくて、あなたみたいに、ビアスと肩を並べて戦いたいの。今はまだ震えてるだけだけど、いつか、……ううん、すぐに二人に追いつくから。私を認めさせるから」
決然とした瞳で、ショコラを見据えるアーニャ。
〈グロリア〉の一員として活躍するショコラを目の当たりにして、潜んでいた彼女に対する劣等感が発露してしまいそうになったが、自分がいかに甘えていたかを知り、くよくよしている暇なんて少しもないのだと思ったのだ。
まだ初等の魔術の導入も満足に扱えない彼女が、こんなことを言うのを滑稽だと嘲笑する者もいるだろう。
しかし、ショコラは違う。
「私もまだまだ未熟で、ついさっきも自分の無力を実感したところなんだが。いいだろう。アーニャが私たちを目標にすると言うなら、いつまでも待っている。そんなに遠い日のことでもないかも知れないしな」
そのとき、ドアノブから鍵が回る音がした。
ビアスが帰ってきたようだ。
「それと、」
そう言って、ショコラは立ち上がり、
「もう一つの勝負も、負ける気はない。ビアスは誰にも渡さない。命をかけても」
凛々しく宣言したその顔が、あまりにも綺麗で、アーニャは怯みそうになる。
でも――、
「私だって負けないわ。誰にも負けない」




