第5話 臨時講習
石畳を震わせる咆哮と共に、巨躯の大蜘蛛が地を蹴った。
狙いは、先ほど同種をゴミのように処理した目の前の男――スパイク。
時速数十キロは出ているであろう、質量兵器さながらの凶悪な突進。まともに喰らえば肉塊すら残らない——はずだった。
スパイクは逃げるどころか、身構えることすらしない。ただ、面倒くさそうに片手を前へ突き出した。それだけだ。
正面衝突。
生物がぶつかり合ったとは到底思えない、爆発のような衝撃音が轟く。
爆風のごとき風圧が研修生たちの髪を激しく揺らし、舞い上がった砂粒がその視力を奪う。
(――終わった)
モブログが絶望に目を瞑りかけた、その瞬間。
『――――ッ!?』
悲鳴を上げたのは、突進した大蜘蛛の側だった。
それどころか、突進の凄まじい慣性エネルギーを逃がす場所を失った大蜘蛛の巨体が、自らの衝撃で『くの字』に折れ曲がり、浮き上がっている。
「邪魔だ、どけ」
スパイクは鬱陶しそうに呟くと、受け止めた片手だけで、その巨体を軽々と虚空へと放り投げ、ダンジョンの壁へと叩きつける。
その常識外れの光景に、眼を剥いた絶望の淵の住人たちは、息をするのも忘れ、先ほどとは違う静寂に支配される。
その場には、ひっくり返った大蜘蛛の無様な鳴き声だけが鳴り響いていた。
「い、……生きてた……」
ようやく息をすることを思い出したレシーブの呟きに、スパイクの耳がピクンと反応する。
「は? この程度で死ぬわけ無いだろ? お前らちゃんと安全マニュアル読んでんのか?」
「安全……マニュアル?」
研修生たちの顔に疑問符が浮かぶ中、モブログの脳裏には『狂気の産物』の姿が映し出されていた。
それは冒険者の死亡率が問題になった際、国役所・冒険者課から指導文と共に送られてきた本。
『冒険者安全マニュアル』と銘打たれ、ギルド職員からは『狂人の書』と謳われる全三十章に及ぶ凶器じみた厚みの教本だ。
確かに、そこに書かれた内容を完全に実践できれば、死亡率の低下どころか、人間兵器の量産さえ可能だろう。
だが、それを読み込む根気を持つ物好きは中々おらず、読破した数少ない奇特な人間たちの感想も、一様にこうだ。
『できるかこんなもん! これができるなら、王国軍のお偉いさんになるわい!』
『三歳児レベルのクソ下手図解イラストが余計に腹立つ』
『最後の作者コメント「是非安全な冒険者ライフを!」がツボった。なんだこの狂人?』
モブログも例外でなかった。そのマニュアルを開き、第一章にさらりと書いてある、
『モンスターの生体は各種全ての弱点、習性から、他全てを覚えましょう』
『人体強化魔法は死亡率を大きく下げます。凄く便利ですので、探索中は24時間途切れさせないようにしましょう(注:寝てるときもです!)』
ここを読んだ時点で、狂人が書いたと確信し、そのマニュアルを、そっと閉じた記憶がある。
そんな困惑をよそに、スパイクは振り返り、開いた口が塞がらない研修生たちをビシッと指差した。
「よし、お前ら! 絶好の機会だ。今から大蜘蛛の実地解体講習を始める!」
「……は、はい?」
「いいか、大蜘蛛なんかただデカいだけの不快害虫だ。駆除方法も確立されてる!」
スパイクはそう言い放つと、腰に帯びていた貸与剣をスラリと抜き放ち、仰向けでもがく大蜘蛛に無造作に歩み寄った。
そして、大蜘蛛の太い脚をガシッと素手で掴み固定させる。
その理解を超えた腕力に研修生はもちろん、モブログも度肝を抜く。
「モンスターの生態と弱点さえ知っていれば造作もない。例えばこの脚。関節の隙間を狙って、こうやって剣を入れる……」
『パキンッ!!』
スパイクが自信満々に振り下ろした剣は、大蜘蛛上位種の強固な関節に呆気なく弾かれ、あろうことか根元から真っ二つに折れてしまった。どうやら通常個体の大蜘蛛にくらべ、その関節は異常に硬かったらしい。
「…………」
「…………」
ダンジョンに流れる気まずい沈黙。
だが、スパイクは何事もなかったかのように、手の中に残った折れた剣の柄をポイッと背後に投げ捨てた。
「……というように、下手に武器を使うと刃こぼれして危険だ。だからここは、テコの原理で……」
『メキメキメキッ!!』
指先を外郭の隙間へとメリ込ませたスパイクがそのまま腕を振り抜くと、装甲版のような外殻の一部が、ひしゃげて剥がれ落ちた。
「力点さえ間違えなければ、ほら、簡単に剥がれる。な? 安全マニュアル第三章の『一類モンスター駆除方法 節足害虫編』に書いてた通りだろ?」
「…………」
研修生たちはもちろん、モブログでさえ声が出なかった。
彼らが目にしているのは、理知的な解体講習などではない。ただの圧倒的な腕力による、一方的な蹂躙である。
そんな異状なものを見る視線に、何かを察したスパイクの動きが止まる。
「もしかして……、読んでないのか?」
その問いに誰も答えない。誰も答えられない。存在すら知らない初心者たちの様子に、何故かショックを受けるスパイク。
しかしその落胆が怒気へと変わり、静かに大きく膨れ上がる。
「あれ書くのに何徹したと思ってんだぁぁぁああ! 読みやすくなるように、図解やイラストも頑張ったのにぃぃぃ!」
「ええ……?」
ほとんど逆恨みの怒声。
それはダンジョンの空気をビリビリと揺らし、その凄まじい怒気に当てられた大蜘蛛が、あろうことか捕食者としての理性を完全に喪失していた。
全身の体毛を逆立たせ、奇声を上げる。
それは、目の前の『小さな』天敵を遠ざけるための憐れな抵抗。
その必死の咆哮も「うるせええええ!」とスパイクの叫びと、掴まれたままの脚をメキメキと握り潰す音にかき消された。
鋼鉄を凌駕する硬度を誇るはずの大蜘蛛の外殻が、スパイクの指先によって粘土細工のようにひしゃげ、緑色の体液が勢いよく噴き出す。
「せっかく書いたマニュアルは読まない、読ませない! 自分たちが設定した安全管理義務は果たさない! 挙句の果てに、金儲けばかりに精を出す! なんだ改名料、銀5枚って! ウチの家賃より高えよ!」
スパイクの怒声は、洞窟の岩壁を震わせるほどの圧力を持っていた。彼はそのまま、力任せに大蜘蛛の前脚を捻り上げ、大蜘蛛が開けたであろう、天井部近くの横穴を指さす。
「見ろ、あの横穴! あんなもん昨日今日でできたもんじゃねーぞ! 管理ダンジョンの月イチ見回り義務をキッチリ果たしてりゃあ、絶対に気付いてたはずだろ! お前らがサボった分だけ、今ここで死にかけたバカ共が増えてんだよ!」
モブログはあまりの正論と、それに伴う物理的な暴力の凄まじさに、ただ震えるしかなかった。
『ギ、ギイイッ』
生存本能が恐怖を上回ったのか、大蜘蛛が信じられない行動に出た。掴まれた前脚を、根元からバキリと自ら引きちぎり、無理矢理体勢を立て直したのだ。
体液を撒き散らしながら、巨体に似合わぬ速度で背を向け、一目散に闇の奥へと逃げ出していく。
「あッ! 待てコラ! 逃げんな!」
スパイクが地を蹴り、叫ぶ。
その怒りは正義感ではなく、別の方向へ向かっていた。
「ここで処理できなかったら、後で軍人どもの聞き取り調査に付き合わなきゃならねーだろうが! あれがどれだけ面倒くせーと思ってんだ!!」
「……そっち?」
モブログの呟きなど耳に入らない。スパイクは手に残された大蜘蛛の太い脚を、やり投げの要領で大きく振りかぶった。
「舐めんなボケがぁぁ!!」
『ヒュンッ』と空気を切り裂く鋭い音が響く。
投げつけられた脚は、逃走する大蜘蛛の背後から、その腹部を貫通し、そのまま地面の岩盤へと深く突き刺さる。
「ギィェェェェェェエエエエッ!!」
洞窟内に大蜘蛛の絶叫が木霊し、スパイクはその勢いのまま飛び掛かった。
「あとぉっ!!」
叫びながら右拳を振り上げ、
「俺はぁっ!!」
その拳に可視化されるほど膨大な魔力が練り上がっていく。
「まだ、お兄さんだぁぁぁっ!!」
超高密度の魔力を纏った鉄拳が、もっとも硬い大蜘蛛の頭部を貫き、その余波で小さなクレーターが出来上がり、ダンジョンが物理的に揺れ一拍おいて砂煙が立ち上った。
「……おっさん呼ばわり、やっぱり気にしてたんだ」




