黄昏月 ―― 酸いも甘いも
大納言大伴が連れ出されても、解散とはならなかった。隅に座していた左兵衛佐小野が呼ばれ、中央へ移動した。左兵衛佐小野は褒美がもらえると思い、へらへら笑っている。
「権大納言よ。左兵衛佐が持ち場を離れ、私の所へ来たが、己の宣いか」
帝の強い口調に権大納言藤原孝平はギョッとした。
「めっそうもございませぬ。私は何も存じてはおりませぬ」
しらを切る権大納言を見た左兵衛佐小野は腰を浮かせた。
「権大納言殿、話が違うではござらぬか。権大納言殿が昇進すれば、私を推し薦めると。その契りは空言にございますか」
「知らぬ。そのようなこと言うておらぬ。主上、恐れながら申し上げます。左兵衛佐が勝手にしたまでのこと。左兵衛佐が処罰を恐れて私の名前を申したと思われます」
他の者たちは、醜い争いを滑稽だと笑って見ている。帝は白けた目で二人のなすり合う姿を見ていた。しかし、弥子との貴重な時間を台無しにした左兵衛佐だけは許せない。大納言大伴よりも重い罪を下さなければ気が治まらない。
「権大納言よ。そなた、大納言の席欲しさに左兵衛佐を騙したのか」
「主上、恐れながら申しあげます。そのようなこと、決してあってはならぬこと。私は全く存じませぬ」
「では、そなた。大納言の席はいらぬと申すのか」
「それは……厳正なるご判断に従いたく存じます」
「ふむ。このような話が出てこようとは、そなたも脇が甘いのう。大納言の任も身の才に絶え難しであろう」
権大納言は苦い思いにぎりりっと奥歯を噛むが、文句を言うことも出来ず「不徳の致すところにございます」と平伏するしかなかった。
(思い知ったか。私を騙そうとするからだ)
左兵衛佐小野は権大納言藤原を心の中で笑っていた。
「して、左兵衛佐。そなたの罪だが。惟光、申し付けてやるがよい」
左兵衛佐小野は目を丸くした。自分は、褒美をもらえるようなことをしたはず。なぜ罪を問われるのか、分からない。おろおろする左兵衛佐小野を尻目に、惟光は冷たく、淡々と読み上げる。
「左兵衛佐小野東永。一、主上の宴の邪魔をし、無礼を働いたこと。一、持ち場を離れた職務放棄と警備の重大な過失。一、上意を仰がず勝手に弁を弄した、秩序の逸脱である。よって、本日をもって職務を解き、謹慎を申し付ける。速やかに検非違使庁へ出頭し、糾問に応じよ。以上である」
長い行事がようやく終わった。夫を待つ妻たちは痺れをきらしていたが、夫の疲れた表情を見ると、文句を言う気にはならなかった。
内裏に静けさが戻った――
帝は弥子を探した。冷え切った庭の小川に一人いる彼女を見つけ、ほっとした。
「会議、終わった? お疲れさま」
顔を見た途端、帝の怒りが急速に冷えていく。やっと会えた気がしてたまらなく胸が熱くなるのを感じた。
「ここで、何をしておったのだ」
「ぼーっとしてた」
赤や白の花を咲かせた梅の木々と緩やかに流れる小川、そこで戯れる桃の精のような娘。見慣れたはずの庭が、驚くほど美しく見える。
「風邪をひいたらどうする」
「ねえ、盃流すから、昼間のあれ、詠んでくれない?」
「ならぬ。こんなに冷たくなっておるのだ。詠むわけなかろう」
帝は弥子の手を取り、立ち上がらせようする。
「えーっ、ちょっとだけ、いいでしょう」
「ならぬと申しておろう。我がままを申すと、禁獄の刑に処するぞ」
帝は弥子を抱き上げて、清涼殿の中へ入って行った。
夜が更けようとする中、灯りの下で、宴の続きを楽しむ者がいた――
文机を前に座する帝の隣で、弥子が嬉しそうに覗き込んでいる。しかし帝は、少しばかり不満気味。弥子を抱きしめたいのに、筆を握らされている。
「もう一句、詠んで」
ひとの気も知らず、昼間に詠んだ歌を手に、弥子が真っ新な懐紙を差し出す。帝はそれをとりあげ、脇へ放った。
「もう出ぬわ」
「なんで桃?」
「言わぬ」
「けち」
「けちとはなんだ。……そなたのことだ。わからぬなら、その肌にしかと分からせてやるわ」
畳の上に弥子を組み敷いて、頬から首筋へと手を滑らせる。簪を抜き、紐をほどくと髪がふわりと扇のように広がった。ふっくらとした桃色の唇がなんと艶めかしいことか。
「待って、誰か来るかも」
「来ぬわ。もし、邪魔をしよう者がおるなら、ただではすまさぬ」
夜はまだ冷える。
それでも帝の寝所だけは暖かな風が吹いていた――桃の花 夜の帳に並ぶ影 きみまつ空に もゆる思いを
(夜の帳に二人の影が重なる。この時をどれほど待ちわびていたことか。この燃えるような慕情を、どうか受け止めておくれ)




