黄昏月 ―― 夢の通い路
その頃、清涼殿南の間では帝と弥子が宴を遠巻きに眺めていた。弥子は、初めて見る宴に興味津々。歌題に合わせて即興で詠まれる歌を楽しんでいる。
「詠めないとどうなるの?」
「流れてくる盃を飲む」
「お酒が好きな人は、わざと詠めないふり、したりして」
弥子は、あははは、と大口あけて屈託なく笑う。
(退屈な宴も、そなたがおると楽しいのう。だが、几帳越しでは、ちとつまらぬな)
帝は弥子のいる几帳に入って行った。弥子は首を傾げている。
「どうしたの?」
「そなたが遠すぎる」
「隣なのに?」
「布一枚でも許しがたいのだ。膝をかせ」
帝がごろりと横になって弥子の膝を枕にした。
「しのぶれど 桃の通い路 恋しくて 隔てし袖の 障りもぞ知る」
(誰にも知られぬよう隠し通そうとしているけれど、君のもとへ通う道が恋しくてたまらない。君と私を隔てているこの境界が、いかに邪魔であることか……そのもどかしさを、君にも知ってほしい)
見つめる帝の目があまりにも情熱的で、弥子は胸のドキドキがとまらない。
「歌の褒美をくれ……」
静かに笑って帝が弥子にキスをした――ほんのりと酒の香りがする。
小川で詠む歌も鳥の囀りも風の騒めきも、二人にはもう聞こえていない。
几帳の裏で控えている惟光は、祈った。
(しばしの間、誰も邪魔するでないぞ)
しかし、惟光の願いは叶わなかった。
「蔵人頭殿、大変でございます」
従五位左兵衛佐小野東永が殿上の間から声を荒げた。惟光は南の間の御簾を潜り、小野の待つ殿上の間へ移動した。平伏する小野を後ろへと追いやった。
「帝の御前であるぞ。大声を出すでない」
「都で噂になっておりました大納言殿について、お耳に入れたいことがございます」
小野は南の間にいる帝に聞こえるように言った。帝が弥子を連れていることを決して小野にけどられてはならない。もし明るみになれば、それこそ一大事だ。あくまでも公務の途中の息抜きを邪魔するなと、追い払うしかない。
「あとにいたせ。今は宴の最中にあるぞ」
惟光は、小野を立たせ、追い返そうとした。しかし、小野は食い下がる。
「ですが、都は大変な騒ぎになっております故、早くせねば手遅れになりかねぬかと……」
「申してみよ」
几帳の中から不機嫌な声がした。惟光に促され、続く廊下を膝立ちのまま移動し、御簾の外側で平伏した。
「主上、恐れながら申し上げます。大納言さまが、かぐやとか申す者に求婚し、北の方さまとの離縁する話は、噂ではなく、まことのようでございます」
「それで?」
「私も証なる情報を掴んでおります。くだんの船頭が、対価をもらっておらんとあちこちで騒いでおるのです」
「そなた、左兵衛佐とか申したな。偽りであれば重罪ぞ。それを承知の上で申しておるのか」
窘める惟光を小野は一瞥する。お前ごときが邪魔立てするな、と言わんばかりの目をして、梃子でも動かぬ様子。
「はい。覚悟の上でございます。収拾つかぬ故、なにとぞ、主上の御裁断を仰ぎたく存じます」
「惟光、酒宴済みなば大臣どもを参らせよ。左兵衛佐、そなたはもう退け」
体を起こしていた帝は、小野を追い払ったと思い、再び弥子の膝を枕にした。ところが小野は、立ち去ることなく食い下がった。
「都で騒がしくしておる船頭は、如何いたしましょう」
「……放っておけ、大納言が肩をつけるであろう」
「承知いたしました」
「左兵衛佐」
「はっ」
「心づきなし、酔いの心地もとかく醒めてしもうたわ」
いら立つ声は、小野にも伝わっていた。小野の膝が震えている。惟光は冷ややかな視線を小野に向けた。
「お、お許しください」
「して、誰がそなたに持ち場を離れよと申したのだ」
「そ……それは」
「そなた、我意を張られたか。あるいは誰かに許しをもろうたか、いづれかのう」
「……権大納言殿でございます」
「ほう、権大納言か。宴の後の集まりに、左兵衛佐そなたも同席するがよい」
小野は密かにほくそ笑んでいた。自分が確たる証を述べれば、大納言は失脚し、権大納言が昇格する。そうなれば、約束した通り自分も昇格出来る、と。
(帝から褒美をもらえるかもしれん)




