黄昏月 ―― 雛人形
弥子が粥を食べている頃、昼御座では空気が張り詰めていた。帝のいる御簾の前に、大納言大伴御行の北の方が平伏している。
「そなたが、来るとは何事か」
「本日は、お願いに参りました」
振り絞る声は微かに震えていた。
「大納言に頼まれたか」
「い、いえ。私の意思にございます」
「ほう……」
御簾越しに北の方を見る帝の視線は鋭く冷たい。なんの感情もなく話す声は、招かざる者だと言わんばかり。北の方にも、春子たち女房にも肌にひりひりとした痛みとなって伝わってくる。
「早よう申せ。そなたに構っている暇はないのだ」
いら立つ声に北の方はさらに身を縮めた。
「お、恐れながら申し上げます。大納言は昨日まで床に伏せっておりました。病身でありながら、主上のお心に背くことになると申して、お止めしてもきかぬのです。斯くして、曲水の宴に参内いたしました次第でございます。なにとぞ、ご寛大なお心でお許しを賜わりたく、伏してお願い申し上げます」
「都の噂を耳にしたが、まことか」
「噂……でございますか。御耳を汚してしまったこと、深くお詫び申し上げます。ですが、私は何も存じておりませぬ」
「惟光、人払いをいたせ」
惟光は二人の対話が外へ漏れないよう、蔵人たちを使って北の方の女房たちを離れた廊下へ追いやった。
「蛍子」
北の方は思わず顔を上げた。幼名で呼ばれ、ドキッとしたのだ。
「そなたに問う。申したことは、そなたの真心であるか」
「……」
北の方は黙り込んでしまった。幼い頃より真の心など、持たぬよう努めてきた。
(私は生きている限り、人形なのだ。大それた望みなど恐ろしくて口にはできぬ)
北の方は唇を噛みしめた。
「ま……まことにございます」
「大納言が没落の道を辿るとしてもか」
北の方は息をのんだ。生まれた時から何をするにも人の世話をあたりまえのように受けてきた。自分で髪を梳かしたこともない。女房たちが手となり、足となり、動き回る。北の方にとって没落とは、手足をもぎ取られ、裸で外へ放り出されるようなもの。頼る術もなく、まさに死に等しい。
「呪縛を解くか、このまま大納言と破滅の道を選ぶか、そなたが決めればよい。されど、どちらを選んでも辛く苦しいやもしれんがのう」
生まれて初めて人生の選択を迫られている事に、恐怖すら覚える。すぐに答えなど出るはずもなく「承知しました」と言うのがやっとだ。
「他言は身を危ぶまれる。しかと心に留めておけ」
「心得ております」
「……そなたが嫁いた事、桃の精霊は案じておった」
北の方は深く頭を下げ、母屋へ向かった。春の香りを風が運び、頬を撫でる。ふと、帝の言葉が脳裏に浮かび、何気なく振り返った。
(……桃の精霊?)




