黄昏月 ―― 桃の精
宮中、内裏の庭――
三月三日、庭の梅の花に誘われて、日の光と共に桃の精が現れた。風は少し冷たいが、柔らかな日差しが桃の精を優しく包み込んでいる。
朝の祈祷を済ませた帝は迷わず、手を差し伸べ、桃の精を抱きしめた。
「今朝は、一段と美しい」
帝は桃の精の首元に唇を寄せた。爽やかで甘い香に胸が満たされる。
「まだ、誰も来てないみたいだけど」
小川の辺りにいるのは忙しなく働く女官や蔵人ばかり。招かれた貴族たちの姿は見あたらない。
「朝餉を用意しておる。さあ参ろうか」
ワンピースとワイドパンツの上に羽織った光沢のある薄桃色のガウンドレスは、足元を覆う優雅でエレガントなシルエットにした。羽衣のようにベールを肩にふんわりとおろし、夜会巻の髪には桃の花の蕾をつけた枝かんざしを挿している。フェイスベールには桃の花の刺繍が小さく咲いていた。
少し歩きにくそうにしているのを見て、帝が弥子を抱き上げた。
「わっ。だめだよ。人に見られちゃう」
「かまわぬ」
「恥ずかしいよ」
「ならば、顔を隠しておるがよい」
二人の仲睦まじい姿を見た女官たちは、その眩しさに目を凝らす。
「あのお方は?」
「今を時めくお方ですわ」
「羨ましい……」
女房を一人も寄せない男が、唯一溺愛しているのだから、羨ましくないはずがない。近づこうものなら、番犬のように張り付く蔵人頭に威嚇されるのだ。
女官たちは、羨望の眼差しで見つめ、思わずため息を零した。
間もなく、客人たちがやってくる。ほんの少し、二人の時間を楽しむのであった。
清涼殿、母屋の廂の部屋に案内された。時折、廊下を歩く人の足音が微かに聞こえるものの、風通しもよく、庭の景色もよく見える。
御膳には汁粥と一緒に、若菜を混ぜたお餅が添えられていた。
「母子餅だ。邪気を払い、無病息災を願うのだ」
「頂きます!」
自分の隣で粥を匙ですくい、美味しそうに食べている弥子を見て、帝は目を細めた。うなじの後れ毛が、なんとも艶めかしい。
「今夜は泊っていくであろうな」
一瞬、弥子の手が止まる。いたずらっぽく帝に視線を向けた。
「……帰るつもりなんだけど」
「そう申すな。宴ではあまり語れぬ。久しぶりに会えたのだ。夜にゆるりと過ごしたい」
「そんなに私と一緒にいたいの?」
「おかしなことを申すと、このまま夜御座へ連れていくが、よいのか」
「それは、だめ。せっかくの髪が乱れちゃう」
帝がニヤリと笑った。
「何を期しておるのだ? よもやつとめて頼まれるとは思わなんだ」
「……してないよっ」
「夜のほどは心も猛くおはするに、何とてかくは恥ずかしがるのか」
「朝から話すことじゃないって」
弥子をからかって、愉快そうに帝が笑っていると、廊下で控えていた惟光が申し訳なさそうに中へ入ってきた。何かあったのだろうか、弥子は匙をくわえたまま惟光に視線を向ける。
「主上。寛ぎのところ、お許しください」
惟光が耳打ちすると、帝の目つきが厳しくなった。
「弥子、私は席を外すが、どこにも行くではないぞ」
二人が、急ぎ足で出ていく。弥子は若菜粥を口にしながら、二人の背を視線で追った。
(どうしたんだろう)
風がフェイスベールを攫っていった。ひらひらと廊下の方へ飛んで行き、慌てて追いかける。誰かとぶつかり、転んで尻もちをついた。見るとまだ若い姫君がひっくり返っている。
「ご、ごめん。大丈夫」
片膝をつき、姫君を起こそうと手を伸ばすと、その手を扇子でぴしゃりと叩かれた。
「汚い手で触るでない」
驚いて手を引っ込め、女房を見上げる。女房の高圧的な態度を見れば、随分と身分の高い姫君なのだろう、弥子はぼんやりと思った。
女房二人が弥子を押しのけて、姫君に手を貸して立ち上がらせた。弥子を叱った女房はその脇で、弥子を睨みつけたままだ。
「北の方、大丈夫でございますか」
(年の頃は十代前半、それで北の方って、もしかして……)
「こちらは大納言北の方であらせますぞ。無礼である。平伏せぬか」
昨年秋に皇族の姫君が、成人の儀と共に結婚した。恐らく、彼女がそうなのだろう。まだ子供なのに、好きでもない年の離れた男に嫁がされる。やはり、この時代の考え方にはついていけない、と幼い北の方を見て思った。
廊下にいた蔵人たちが様子に気付き、慌てて駆け寄ってきた。
「弥子さま、大丈夫でございますか」
帝も蔵人頭もいないところで、弥子に傷でもつけようものなら、叱られるところでは済まない。蔵人たちは真っ青な顔で、弥子を囲んでおろおろしている。
「うん。私は、大丈夫。でも、あの……」
「お話をしては、なりませぬ。どうか中でお待ちくだされ」
「待たれよ。その女子はまだ北の方に詫びをしておらぬ」
強い口調で弥子を呼び止め、蔑むように見ている女房に向かって北の方が咎めた。
「もうよい。帝はお忙しいのだ。待たせてはなりませぬ」
幼く、儚げに見えても皇族出身の姫君だけのことはある。立ち姿には、威厳が感じられた。
「ですが、北の方」
「参りますよ」
「はい」
女房たちを連れ、北の方がしずしずと廊下を進み、隣の間へ入っていった。
「心なきことを言われたのではござりませぬか」
「あの人たち、声も小さいし、口を隠して話すから、よく聞き取れなかったけど……あの子、顔色よくなかったな」




