黄昏月 ―― 結婚するための条件その弐
ここからは、弥子と交渉する必要があった。
一番の難題は、他の女と浮気したら離婚する。これは簡単な話ではない。
平安時代は一夫一妻の法律があるにも関わらず、一夫多妻が一般的であった。この時代の出産には危険が伴う。出産で妻子が亡くなる、子供が成人を迎える前に亡くなることも多かった。不衛生な環境や、流行り病に小さな体は持たない。一族の血を絶やさないことが重要視されていた。
帝の場合も然り、むしろ子を多く残すことがひとつの義務とされていた。そこに愛は必要ない。皇族の血を絶やさないために、より多くの女に子供を産んでもらわなくてはならないのだ。
それを利用して大臣や貴族たちは栄枯盛衰をかけて、あの手この手を使い、自分の娘たちを入内させようとする。それが叶わなくても、女房や女官として帝や皇后に仕えさせることで、帝の目に触れさせようと考えている。あわよくば、帝に見初められ、自分の娘に次の帝となる子を産ませたい、と。また、弥子を皇后にするならと、条件をつきつけてきた者もいる。一筋縄ではいかないのだ。
惟光は延々と弥子に帝の立場を説明した。
しかし現代の女性に、他にも妻を娶るけど、許してくれ、などと言って誰が納得するだろうか――
「惟光は、色んな女の人に子供をたくさん産ませたの?」
「私は、独り身なので、子もおりません」
帝の立場を理解してほしいだけで、本当に大切なのはあなたですよ、と伝えるつもりが、なぜか惟光自身の話にすり替わっている。
「独身主義者なの? 帝に仕えているから? 人に言うくせに、それはちょっとおかしくない?」
説き伏せるはずが、逆質問でガンガン攻められてしまった。
「わ、私は……その……」
「だいたい色んな女の人と関係を持つなんて、不潔だよ。あり得ない。病院も医者もいないのに、病気もらったらどうすんのよ。責任とってくれるの?」
「そのような恐ろしいことを申されてはなりません」
バンッ、弥子が文机を軽く叩いた。筆が筆置から転がり落ち、惟光は思わず目の端でそれを追いかけた。
「だったら、結婚はなかったことにする。私は子供を作る道具じゃないから、そんな考えを押し付けられても受け入れられない。交渉は不成立ってことで」
弥子が腰を上げようとすると。
「お待ちくだされ!それでは主上になんと申せばよいのか」
「知らないよ。そのまま伝えればいいんじゃない? 私との結婚は破談になったって」
食い下がる惟光に弥子は冷たく言い放った。しかし惟光も引き下がるわけにはいかない。
「それで、よろしいのでございますか?」
「よくないよ。でも、私以外の女の人と過ごすのを黙って耐えるなんて無理だし、今、別れた方がお互い傷は浅いでしょう」
弥子は、一歩も引く気はない。それは惟光にも十分過ぎるほど伝わっていた。たった一晩の夜伽を望む女が大勢いるのに、目の前の女は、その一晩を絶対に許さないと言う。
「弥子さまは、心もとないのでございますね」
「心もとない?」
「主上の御心を留められるほどの器量がおありでない、そう申したのでございます」
惟光は、背水の陣の思いで言った。それは惟光にとって、大きな賭けであった。負けず嫌いな弥子の性格なら、挑発すれば乗ってくるに違いない、と。
「なっ……」
「姫君たちを入内させぬ、それは契りがたいものにございます。されど主上は、限りあるまで叶えてやれ、そう申されました。あのお方の慈しみ深い御心に、なにとぞその身を委ね、お仕えして頂きますようお願い申し上げます」
惟光は、これでもかというくらい、床に額を擦りつけた。主君のためなら泥をも被る。そんな忠義の姿勢は、これまで幾度となく見せてきた。弥子が返事をするまで、彼は微動だにせず伏せ続けようと決めていた。
弥子は目の前の文机に向かって姿勢を正し筆を手に取った。筆先に墨をつけ、他の女と浮気したら離婚する、それを一本の線を引いて消した。
「帝の寝室で私も寝る。これは譲らない。そこに他の女の人を招くのだけは、絶対無理だからね」
弥子を皇后にする、それは帝の切なる願いであり、惟光自身の願いでもあった。大臣や関白が、他の姫君たちを入内させたとしても、夜を共にするかどうかは帝が決める。
しかしどんな手を使ってくるか分からないのだ。何かあるたびに、契約が違う、離縁だと皇后に騒がれては帝の尊厳にかかわる。離縁など、帝が断じて許すはずもない。その度に惟光自身が翻弄されることは避けたかった。
「弥子さま、『公式の外出以外は、供の者はつけない』こちらは主上が、お認めにならぬと申しておりました」
協議の結果、『最低二人以上の随身を供につける。外出時の装いは男装する』など、条件を書き加えることで、契約が成立した。




