居待月 ―― 秘薬
朝の光が、弥子のまぶたを射した。
弥子は体を起こそうとした。しかし、手足は頼りなく空を掻くだけ。昨日の夜よりさらに小さくなっている自分の手を見て弥子は絶句した。
「あ、赤ちゃんになってる……」
まだ眠いと言わんばかりに蚕が片目を開けた。娘の姿を見て驚き、ころんと転がって地面に落ちた。
「どうなってるのよーっ」
弥子は絶望的な思いで、力いっぱい叫んだ。
「誰か―っ、助けてーっ。誰かいないのーっ、ここに赤ちゃんがいますよーっ」
その時。カサリ、と竹の葉が擦れる音がした。
竹藪の向こうから現れたのは、質素な麻の衣を纏った竹職人の老人だった。密集する竹の切り株を覆うように、金色に輝く蜘蛛の巣を見つけた。そこから赤ん坊の泣き声が漏れ聞こえてくるのだから、翁は驚いてぽとりと鉈を落としてしまった。
翁は恐る恐る、眩い光を放つ方へと近づいていく。指先を伸ばし、その糸にそっと触れてみた。
「これは……糸? 黄金の……?」
触れた感触は驚くほどなめらかで、柔らかい。光を幾重にも折り重ねたかのようなその輝きは、この世のものとは思えぬほど眩い。
金の糸をかき分け、泣き声を上げる赤ん坊を見て目を細めた。なんと可愛らしく眩しいのだろう。金のように輝いている。翁は慈しむように、赤子をそっと抱き上げた。
「金に守られた赤子。まさか、この子は……神の子では……」
翁の顔を見上げた弥子は、なんかこの話、知ってる、と心の中で呟いた。
飽きた――
赤ん坊になって三日目。赤ん坊ライフに飽きた。
早く父の体を元に戻し、もといた世界へ帰らなくてはならないのに、いつまでこの体でいなくてはならないのか。
「ねぇ、お父さん。元の大きさに戻る方法、考えてよ」
傍から聞けば、「おぎゃ」とか「うぷー」にしか聞こえない赤ちゃん言葉も、弥子の父には通じていた。弥子の父、月野海は今、人間ではなく、口から糸を吐く特殊能力を持つ蚕になっているからだ。
蚕の姿のまま弥子の傍から離れずにいる父は、老夫婦が部屋に入ってくると、さっと弥子を入れた籠の下に隠れてやり過ごした。
「しかしな、かぐや姫が大人に成長するのは三ヶ月後の話だぞ」
父の言葉を聞いて、弥子は心底うんざりした。
「そんなに待てるわけないじゃない」
父親曰く、自分たちは平安時代の物語『竹取物語』の世界にいるらしい。赤ん坊の弥子を拾った老夫婦も互いのことを翁、媼と呼んでいたので、そうなのかもね、と認めるほかなかったが――。
「確かに、翁って名前のおじいさんに助けられたけど。私がかぐや姫って。笑っちゃう。もう、かぐやでもなんでもいいから早く元の大きさに戻りたい」
父は蚕の姿のまま、小さく身をよじってため息をついた。
「弥子、ここは物語の世界だ。ストーリーを変えるのは難しいぞ、それと翁は名前ではない。老人の男のことを言うんだ」
「そうなの? 名前じゃなかったんだ。ところで、私やお父さんがいるってこと自体、もうストーリーは変わっているんじゃない? その不思議な体で大きくなる薬とか、出せないの?」
父はうーん、と考え込んだ。糸なら出せるが……。そうだ、すっかり忘れていたが、家を出る前に何かあったらとアレを飲みこんできたんだ。
「弥子、喜べ。出せるぞ。試してみるか」
「ほんと?」
蚕は弥子の顔の横で、小さな粒を尻からぷっと出した。黒くて丸い粒を。それを見た弥子が顔を歪める。
「なにそれ、もしかしてうんち?」
「うんちではない。万能……」
蚕が言いかけた途端、弥子は嫌悪感を前面に押し出して。
「いや、絶対飲まない」
拒絶した。
まだ最後まで言っていないのに。海はがっくりと項垂れる。しかし、気を取り直し。
「最後まで聞きなさい。ここへ来る前に、万能薬試作品『海スペシャル』を大量に飲んできたんだ。蚕のフンは蚕沙といって、生薬なのだ。しかもこの体は、万能薬の力が漲っている」
自分が蚕になった原因を究明できたわけではないが、作った薬が原因のひとつだと月野海は確信していた。やはり、自分は天才だとほくそ笑む。
「つまりだ、私の出す蚕沙は秘薬だ」
蚕がぴょんと跳ね、弥子の顎に降り立つ。その小さな瞳には、自信と決意が固まっていた。
「お父さん?」
「許せ、弥子」
「やめてーっ!」
弥子の悲鳴も虚しく、蚕は素早い動きで弥子の口をこじ開け、小さな粒を放り込んだ。
ごくり――。
飲んじゃった。弥子は身体をバタつかせた。
「やだーっ、うんち飲んじゃった―っ!これ、虐待だよ。一生恨むから。お母さんに言いつけてぶん投げてもらうからーっ」
小さな手足がみしみしと音を立てぐんぐん伸びていく。指先はしなやかに、背丈もみるみるうちに大きくなり――。
あっと言う間に弥子はかつての十八歳の姿をとり戻した。




