月華 ―― 山より高い
(――いま、何時だろう。暗すぎてわかんない)
目が覚めると、そこはいつもと風景が違っていた。そうだ、昨日、帝の寝所に泊ったんだった。
手探りで帝を探した。……いない。もう起きて、どこかへ行ってしまったの? 私を一人残して?
「うー、トイレに行きたい。どこにトイレがあるんだろう」
掛布団にくるまったまま、ころころしていた。が、我慢の限界に達する前にトイレを借りなくては、と弥子は気合を入れて衾から抜け出した。
見ると、身に纏っているのは、帝の小袖だ。ぎり、尻が隠れる丈である。掛布団を捲って昨夜着ていた服や下着を探したが、見つからない。
「私の服、どこ。つーか、パンツもない」
この時代、現代のようなパンツは存在しないが、そこは現代の知恵、弥子は布を縫ってウエスト部分に紐を通したトランクスタイプのパンツを使用している。
「えーん、服がない。こんな格好じゃ、几帳の外に出ていけない」
「これは、なんともいえない眺めであるな。朝寝を楽しみたくなるのう」
朝の祈祷を済ませた帝が立っている。慌てて掛布団で下半身を隠した。
「変態」
「なぜ隠す。この体は、もう私のものではないか」
はぎ取られそうになり、必死で抵抗する。
「一応、恥じらいくらいもってるよ。いいから私の服とパンツ返して。トイレに行きたいの」
「トイレ? なんだ、それは」
「えーと、厠、そう厠だ。そこに行きたいの。それともこの格好のまま、出て行っていいの?」
「ならぬ。そなたの肌を見るなどもってのほか」
「じゃあ、昨日着ていたやつ持ってきて」
「ふん、しかたないのう」
帝は几帳の外へ出ていくと、脇に隠していた弥子の服を持ってきた。
「本来なら、全て処分いたすところだが、そなたは神の子ゆえ、それができぬ」
処分とはどう意味なのか、突っ込む余裕もなかった。とりあえず返してくれてよかった、とほっとする弥子であった。帝を几帳の外へ押しやり、急いで下着をつけた。ロングパンツとワンピースを着ると、白いガウンを腕に掛け、几帳から出てきた。
「厠はどこ?」
「そのようなもの、あるはずがなかろう」
「は? だって、庭で蹴鞠したときは、あったじゃない。めっちゃ遠かったけど。あんまり入りたくないけど、ぽっとんのトイレ」
「あそこは、本来、そなたが行く場所ではない」
しばらく沈黙が続いた。弥子は頭をぽりぽりかく。泊まった女の服を処分する習わしも、ただっ広い屋敷の中にトイレが一つもないことも、弥子には想定外。頭の片隅に浮かぶ「不便過ぎる」文字。
「えーと、帝さん。昨日のことは、いったんなかったことにしてください。では、私はこのままお暇いたします」
弥子は正座をすると、深々と頭を下げた。
「聞こえぬ」
「聞こえていようが、聞こえていまいが、知らんわっ。とりあえず、屋敷の外にあったトイレに行く。それでそのまま帰るから。じゃあね」
「我慢できるのか」
「ここで漏らすわけにはいかないでしょう」
「惟光」
「はっ、ここに」
いつからいたのか、寝所の片隅に惟光が控えていた。
「樋箱を持ってまいれ」
樋箱とは、平安時代の持ち運び可能なポータブルトイレである。箱の中に排泄し、専門の係りが回収、洗浄するのである。それを見て弥子の顔が青ざめた。
「お、おまる?」
「遠慮なくいたせ」
「……で、皆、出ていってーっ。早く、漏れるっ」
二人の背中をぐいぐい押して廊下へ追いやった。誰にも見られないように几帳の陰に隠れて用を足した。土や灰を敷いただけの木製の箱は、想像以上に排泄の音が響く。静かな寝所の傍らで待っている二人の男にも当然聞こえる。かつてこれほど恥ずかしい思いをしたことがあっただろうか。
「歌姫が欲しい!」
それだけならまだしも、その箱を人に渡すことがなにより耐えられなかった。帝の寝所がある清涼殿は女人禁制。女房に来てもらう事も許されない。またもやそれを受け取ったのは惟光だ。しかも惟光は「香を添えて処理いたしますゆえ、ご安心ください」と当たり前のように言ったのだ。
弥子は思った。皇后のハードルは富士山より高いかもしれない、と。
「弥子さま、朝餉の支度ができております」
「食べ……ずに帰る」
(そんなもん食べたら、今度は大きい方がしたくなる。誰かに見られたら、生きていけない)
恥の次元が違う。この時代の感覚についていけない。
弥子が帰ると言ってきかないものだから、帝と惟光はなんとか機嫌をとろうと考えた。
「そなた、蘇を食べたことなかろう」
「そ?」
そんな食べ物、聞いたことがない。弥子は首を傾げた。
すかさず惟光がフードアナリストのごとく。
「牛の乳を長く煮詰めて乾燥させたものです。とても高価な品にございます」
「ということは、バターとかチーズみたいなやつ? へえ、ここにそんなものがあるの。食べた……くないっ!」
「粥や蒸し鮑もご用意しております」
「た……たべた……くないっ!」
聞いているだけで食べたくなる物ばかり並べたてる惟光と、それを攻防する弥子の対決は続いた。はぁはぁと息を切らす弥子の背に帝が手を添えた。
「そう申すな。そなたのために、心を込めた者がおるのだぞ。そなたが食べねば、これは処分されるのだ。構わぬのか?」
ずるいなぁ、と弥子は思ったのと同時に、帝の手のひらで転がされている気がした。
「いただきます」
粟と小豆を混ぜた粥、魚の干物、酢の物、蒸した鮑、どれもありがたく頂いた。帝は酒を飲んでいるだけ。
「帝は食べないの? それとも、もう食べたの?」
「主上の朝餉は儀式ゆえ、ご一緒に召しあがることはないのです」
「それは、結婚しても?」
「はい」
「ここでなら、一緒にご飯を食べられると思ったのに……。食べられないのか。そうなんだ」
寂しそうに呟く弥子を見て、帝は両手を広げて呼んだ。
「ここへ参れ」
帝の傍へ行くと、ほんのりお酒の香りがした。帝は弥子の腕を引き寄せ、胡坐をかいた膝の上に乗せた。
「そなたが食べる顔を見るだけでよいのだ。そなたは何も気にせんでよい」
「そうじゃなくて、一緒に食べて美味しいねって、言いたいの」
「惟光、蘇をもってまいれ」
惟光が用意した蘇に、帝は匙を入れ、それを弥子の口へ持っていく。弥子はぱくり、食べた。
「普通に美味しい。バターとチーズの間みたいな感じだ。塩とかジャムつけても美味しいと思う」
「そうか」
「もう一口、ほしい」
「よしよし、一緒に食事は出来ぬが、こうしてそなたが食しているところを見るのは楽しいぞ」
いつか、本当に一緒に食べることができたら嬉しいな。
食べ過ぎた――
「お願いします」
「しかと承りました」
再び、樋箱の世話になった。
惟光に乙女の便りの入った樋箱を処理してもらい、ハードルがエベレストよりも高くなったことは、言うまでもない。




