月華 ―― 雪の花
中納言藤原邸を出てから、弥子は牛車の中でずっと考えていた。あまりにも静か過ぎて、惟光も心配するほどに。
(姉上に何か言われたのであろうか)
「弥子さま、お気分が悪いようでしたら申しつけてください」
「ありがとうございます……」
(暗い……。そして言葉遣いがおかしい。やはり、一度止めて、様子を伺った方が良いのではなかろうか)
その時。
「惟光、やっぱ止めて」
さっきまでの弱々しい声ではなく、はっきりと聞こえた。
「お止めしろ」
牛車を止めると弥子が出てきた。
「惟光、ちょっとこっちきて」
呼びつけられ、惟光は馬から降りるとすぐさま、牛車の横に片膝をついた。弥子は一瞬空を見上げ、飛び降りた。口元に笑みがこぼれている。惟光に、嫌な予感が走る。
「ちょっと、馬借りるね」
「はっ、えっ、や、弥子さま?」
惟光の馬に飛び乗ると手綱を引いた。
「牛車でゆっくり帰っておいで」
「どちらに行かれるのですか」
「馬、返してくる」
「返す……って、あのお方の元へ向かわれるのですか。いや、なりませぬ。お一人で行かせるわけには。早く、追え、追うのだ」
馬に乗った随身が追いかけていく。惟光は、大きな溜息を吐いた。
弥子は馬を走らせた。冷たい風が肌をビシビシと叩く。指先も額も頬も感覚がなくなるほど冷たい。それでも馬を走らせたのは、会って確かめたかったからだ。
どうしてこんなに心が張り裂けそうなくらい痛いんだろう。ずっと誰かを呼んでいる、探している。
門番が矛を手に弥子を止めた。
「とまれ、何者だ」
「帝に会いたい」
透き通るような、それでいて意志の強い声が響く。
「何を申しておる」
「門を開けて」
「弥子さまに門をお開けしろ」
背後から叫ぶ声がして、門番がはっとする。そして慌てて扉を開けた。弥子はひらりと馬から飛び降りると、随身に手綱を預け、内裏へ向かって駆け出した。
その頃、帝は政務を終えたばかりであった。冷え切った空気漂う内裏の廊下を歩きながら、弥子のことを気にかけていた。中納言と北の方は、弥子の良き相談相手になったであろうか。遠のいていくはずの官吏たちの足音が、なぜかだんだん大きくなっていく。
(誰ぞ、走っておらぬか?)
「何事だ。騒がし……い」
帝は言葉を失った。真っ白い雪が内裏に舞い込んできた。
「見つけた」
満面の笑顔で、胸に飛び込んでくる。それは想像もしていないことで、帝は幻を掴むようにしっかりと抱きとめた。
「氷のように冷たい。冷え切っておるではないか」
「……馬で、きちゃった」
「なにゆえ、そのような無茶をする」
「会いたかったから」
帝は大きく目を見開いた。弥子を見ると、いつも強く抱きしめたくなる。つかまえておかなければ、雪のように消えてしまう、そんな気がしてならない。
「愛しい……。そなたが愛しくて、私はどうかなりそうだ」
「私も帝が好きみたい」
見つめ合えば、自然と笑みが零れる。触れたくて、たまらない。抱き合えば不思議なほどしっくりくる。
「好きみたいとはなんだ。愛しいとはっきり申せ」
「恥ずかしいから、やだ……」
帝は弥子を抱き上げて、寝所へ運んだ。
「今夜は帰さぬ」
聞こえるのは、衣擦れの音と二人の微かな吐息だけ。
今だけは、二人だけの世界――
甘い吐息も、白い肌も、全部、全部、熱で溶かして――
隣で小さな寝息を聞いていた。眠ってしまうのが惜しいと思えるほど、眺めていたくなる。
(そなたを皇后にしたら、なかなか寝付けず、困ったことになるやもしれん)
帝は弥子の柔らかな胸に所有の跡を残して眠りについた。必ずや、そなたを皇后にしてみせよう、帝は心に固く誓った。




