月華 ―― 妻問婚
門を潜り、屋敷の中へ案内された。待ち受けていたのは、どこの馬の骨ともわからない娘なんぞ、追い返してやると息巻いていた夫婦であった。しかし、牛車での出来事を耳にし、目にし、震え上がった。まるで見てはいけないものを見てしまったような。
屋敷に忍び寄るあやかしかもしれない――
しかし現れたのは、綿雪のような愛らしく美しい娘。見たこともない白い装いが、天界から降り立った天女のように思えた。眩しくて後光が差しているように見える。このお方は、まこと神の娘だ。
二人が膝をつき、弥子に向かって深く一礼した。
「弥子さま。わざわざこのような場所へお越しいただき、まことに感謝いたします」
惟光は顎が外れるかと思えるほど、大きな口をぽかんと開けて驚いていた。
(姉上、絶対に認めないと言ってましたよね。まさか……帝は、こうなることを初めからご存じだったのではなかろうか。ならば、末恐ろしいお方だ)
「あの……。そーゆーのやめません? 苦手なので」
弥子が手を差し伸べ、北の方を立たせた。すかさず、惟光が壺を差し出す。
「北の方さま。こちら、弥子さまから贈り物でございます」
「蜂蜜柚子茶です。スプーン一杯入れて、お湯を注いで飲んでみてください。寒い冬は喉を傷めますから、潤ってくれますよ」
「まあ、嬉しい。ありがとうございます。外はお寒いことでしょう。部屋を温めておりますので、どうぞこちらへ」
(あの厳格な姉上が、信じられないほど和やかだ。つい先日は、目を吊り上げて怒りを隠すこともなく、私に文句を言っておられたのに)
「しかし、美しい。とても人とは思えぬ美しさだ」
感心したように言う中納言は、目を細め、自慢の口ひげを撫でている。
(そうでしょう、そうでしょう。あれが本来の弥子さまなのですよ。義兄上)
惟光は誇らしくてしかたなかった。
(振り回されて大変だが、人を惹きつける魅力の塊のような方だ。早く戻って帝にお話ししたい)
弥子は北の方の案内で、奥の間へ通された。几帳の中で二人きり、蜂蜜柚子茶をゆっくりと味わう。北の方がほーっと甘いため息を零す。
「なんて美味しいのかしら」
「気に入っていただけたら、私も嬉しいです」
「どうして、子供の年齢や妊娠していないか、お聞きになられたのでしょうか」
「蜂蜜は美味しいけど、重篤な病気になる菌が含まれています。大人は大丈夫ですが、小さな子供には毒なんです。だから赤ちゃんだけでなく、母乳を与えている方もおすすめしません」
「随分とお詳しいのね」
「割と知られていることで、大した話ではありません」
「お国は、どちらにあるのですか」
弥子は一瞬、なんて答えていいか分からなくて黙り込んでしまった。
「……遠い国です。すごく遠くて、簡単に帰れる場所じゃないんです。いつかは帰りたいと思っていますけど」
「まあ、あなたがお帰りになられたら、あのお方はどうされるの?」
「急にいなくなったりはしません。もし帰ることになったら、ちゃんと話すつもりです」
弥子は、自分で言って、少し寂しくなってしまった。帰りたい気持ちより、帰りたくない気持ちが大きくなっている。心が揺らぐのは、帝のせい――
「それで。私にお話とは、あなたの心に住まわれていらっしゃる方のことですか」
「ご存じかもしれませんが、私は、作法も行儀も知りません。それどころか、この国のこともよくわかっていない。それなのに、あまりにも大胆で重いことを言うから……ついて行けない。もう少し、ゆっくり時間をかけてお互いをよく知ってから、そういった話をしたいのです。これは無理なのでしょうか」
「とても……難しいことです。私たち女子は男から文を賜り、心にかなえば、御簾越しに言葉を交わします。三日、睦まじく過ごし、心通えば契りを結ぶのです。そのような機会もないまま、北の方となる者もおります。この私も主に会わぬまま藤原家の北の方になりました」
弥子は目をぱちくりさせた。
「睦まじく過ごす? 契りを結ぶ」
「契りを結ばれた君は主の通いを待つ身となるのです」
北の方の話を聞いて、思わず身を乗り出した。
「えっ、ちょっと待って。三日間エッチしたら結婚成立? しかも男が通ってくるのを待つだけ? 通い婚?」
「主の屋敷に住まわれる者もおりますが、その多くは主が通われます」
「だから妻や愛人がたくさんいるんだ。なにその男に都合の良いシステムは。皆、それで平気なの?」
北の方は、少し寂しそうに微笑んだ。百人一首には切ない恋の歌も多い。それはこの通い婚というシステムのせいではないか、そう思った弥子の脳裏にある歌が浮かんだ。
『嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る』
夫を待つ、長く切ない夜の歌である。
「平気なはずがないですよね。私も……契りを結んだら、家で帝が来るのを待つだけになるのかな?」
「弥子さまは、入内されるお方。後宮の中で主が通われるのを待つのでございます」
「後宮って、あれでしょう。女の人がいっぱいいるハーレムみたいなところ。帝を皆で取り合うことになるの? うーん、それは無理だ、私だけにしてほしい。つーか、私だけの帝じゃなきゃ嫌だ」
弥子の様子を見て、北の方は目を丸くし、クスクス笑っている。
「惟光が言った通りですね。時々、分からないことをおっしゃる。あなたの国の言葉でしょうか」
(私の国は未来の日本です、なんて言えないもんな)
弥子は頷いた。
「弥子さまのお心のままに従われては? 女子は、一族繁栄のために契りを結ぶのです。けれど、あのお方と弥子さまは異なるのでしょう。何度も顔を合わせていらっしゃるなら、心配されなくてもよいのでは?」
北の方の言葉は、冷えた体を温める蜂蜜柚子茶のように、弥子の不安を軽くしてくれた。
「後宮はとても恐ろしく大変でしょう。けれど、きっとあのお方がお守りしてくれます。弥子さまは人を動かす力がおありです。今日、私はそれを目の当たりにしました。信じております。あなたが良き皇后となることを」




