掬月 ―― 散る花
小野邸――
「お前のせいだ、お前なんぞ、娶らなければよかった」
「お許しください。お許しください」
貴族には階級がある。太政大臣など最高位の役職である正一位・従一位から地方の国司の長官や、中級官僚である正五位・従五位まで、その階級によって役割も立場も違った。
小野東永、三十五歳。彼は、地方で広大な荘園を持っており、その財力と賄賂で宮中の警備を担当する左兵衛権佐、従五位の階級を手に入れた。
しかし、従五位とは貴族のスタートラインであり、他の貴族から蔑まれていた。
もう何年も昇格できないことを、妻の実家が没落したせいだと思っており、宮中で馬鹿にされるたび、妻に当たり散らしていた。
「主さま、今夜は勘弁してくださいませ。主さまの大切な御子をお守りしたいのでございます」
「主に逆らうのか」
「めっそうもございません。ああっ」
無抵抗な正妻はただ怯えるばかりだ。その悲痛な表情が小野を駆り立てる。愛情の欠片もない男の仕打ちに、妻はただ耐えるしかなかった。
几帳の側で、毎晩のように傷つけられる正妻と共に涙する女房が控えていた。
(ここは地獄だ、自分は、なんて無力なのだろう)
飛び出して止めれば、小野邸を追い出されてしまう。または重い処罰を受けるかもしれない。なにより一番恐ろしいのは、正妻の側にいられなくなることだ。
(幼い頃からお守りしてきた大切な姫君が、卑しい男に酷い仕打ちを受けている)
女房は声を殺して泣いていた。
「実家が没落した女子になんの価値もない。腹の子に感謝するんだな」
小野は乱れた衣を整えると、正妻の寝所を出て行った。残された妻の体には、どこもかしこも痣ができていた。
「ああっ、痛い、お腹が、お腹が……」
「姫君、すぐに薬師を呼んでまいります」
正妻は流産し、小野は用済みとばかりに妻と離縁した。
実家に戻ってきた和子は、針のむしろだった。手放しで喜び、縁談に飛びついた父親にとって、小野の財力をあてにしていた分、離縁は許しがたい事。ろくに手入れもしていない離れに娘を追いやった。
「屋敷の階段で転落して子を失うとは、自覚がたりん。あげく追い出されるとは、情けない。前川家の恥さらしだ」
「厄介者だよ、まったく」
実家が没落したことで小野から暴力を受け、辱められていたなど、親に言えるわけがない。
(ただでさえ、家の恥と思われておるのに、どうして言えようか)
女房以外は誰も気遣ってくれない。子を失っただけでなく、二度とこの手に小さな命を抱くことも望めない。心が押し潰されそうなほど痛く、辛く、毎日泣いていた。
小野には先妻がいた。病にかかり、子が望めず、離縁したと聞いている。彼女も小野の暴力に苦しめられていたのだろう。自分と同じ、実家にこもったまま、誰とも口を利かずにいると聞く。
許せない、そう思っても何も出来ない。誰か、私を救ってほしい。切に願う和子であった――




