残月 ―― 柿はまだ熟さない
数日後の宮中――
控えていた惟光はことの行く末を心配しながら聞き耳を立てていた。ぴしゃり、扇を閉じる音にびくついてしまう。
「右大臣、聞こえなんだ。もう一度、申してみよ」
右大臣の額から汗が流れ落ちる。しかし、今更引くわけにはいかなかった。既にあちこちの皇族と貴族に話をしているのだ。外堀を埋めてしまえば、帝も折れるしかない。そう踏んでいた。
「東の宮さまにおかれましては、この十月に裳着の儀を執り行います。つきましては、皇后としてお迎えいたしたく準備を整えております。末永くご縁を賜りたく……伏してお願い申し上げます」
「あれはまだ十二だ。そんな子供を皇后に迎えるとは、右大臣よ。そなたも、もうろくしたのう」
「同じ儀式にて、十七から二十八までの姫君も数名、入内させます。教養、容姿も申し分なく、主上におかれましてもご満足頂けるよう、阿部の目を持って選んでまいりました」
「そなたは人形のような女を抱いて、楽しいのか」
人形の何が悪い。姫君は飾りであり、駒であり、男たちの慰みである。皆、そう思っていること。心の中で毒づくも、それを口にすれば貴族たちへの侮辱に値する。右大臣はぐっと堪えた。
「どの姫君も格式高き家柄。権大納言には娘が二人おりまして、二つ返事で喜んでお受けすると申しておりました。あの姫君たちは妃となるための高い教養を身に着けられ、家柄もよろしく、容姿も都で一、二を争うほどであると、噂されております故、必ずや御心に沿うお相手かと存じます。寝所におきましては、女房が心身共に主上のお世話をいたします。主上、なにとぞ……なにとぞ!」
もう我慢ならんと、帝は御簾の向こうから姿を見せた。そして右大臣の足元に扇を投げつけた。ゆらりと立ち、恐ろしい形相で見下ろしている。右大臣は顔を伏せ、額を床に擦り付けた。
「そなたは目も耳も悪いのか。老いぼれに右大臣の席は重かろう。そろそろ退いたらどうだ。私は人形などいらん。二度と、その話をもってくるでないぞ」
右大臣は腹に刃で刺された気がした。
(これほど、帝を、この国の行く末を心配しているのに、分からぬとは)
唇を噛みしめ、わなわなと震えた。
「恐れながら申し上げます。阿部は心配しておるのです。そこまでして、野鼠のような男を好まれるのか」
「今、なんと申した」
「恐れながらこの命を持って申し上げます。主上が庶民の男を寵愛していると陰で取り沙汰されておられることをご承知でございますか。誇り高き御身が汚されるなど、あってはならないのです」
「のう、右府よ。言いたい者には言わせておけばよい。私は一度決めたことを曲げるつもりはない故、よく聞くがよい。私は弥子を皇后にする」
右大臣は、口をぽかんと開けた。
(弥子とは、誰のことだ? 皇后と申されておったが、どこにそのような影があった?)
「面白い話をしてやろう。そなた、かぐやに火鼠の皮衣を頼まれたな。そなたが、大金を出して筑紫にいる唐の商人王慶から、偽物の火鼠の皮衣を買うと弥子は申しておった」
ドンッと胸を一突きされた衝撃に右大臣は腰を抜かした。尻を着き、目の前に立つ男の背を見上げた。
「……なぜ、それを」
「分からぬのか。弥子こそが、神の娘だ」
「し、信じろと? そのような戯言を信じろと仰いますか」
「ならば、そなたが手に入れようとする火鼠の皮衣が本物か、偽物か、しかと確かめてくるがよい」
そう言って、帝は御簾の向こうへ消えた。
後日、右大臣は自ら王慶と会い、受け取った途端、火鼠の皮衣に火を着けた。皮衣はめらめらと燃え上がり、跡形もなく消えた。大金を失うことはなかったが、酷く落ち込み、心に大きな痛手を負った右大臣は、しばらく寝込んだ後、反省した。
「人は見た目で判断してはならんようだ。年の功が聞いてあきれるわ」
そして気を取り直し、内裏に赴くや帝に平伏した。
「皇后には弥子さまを推挙いたしたく申し上げに参りました」
一人だけ、弥子が入内したら、どうしようとびくびくしている者がいる。右大臣に就く家司である。弥子の背中に傷を入れ、侮辱したなど、口が裂けても言えない。彼は、毎晩、悪夢にうなされて眠れぬ夜を過ごし、のちに、出家を申し出た。
宮中でのやり取りを知らない弥子は、屋敷でいつものように朝のルーティンをこなしていた。
「はっくしょんっ」
「風邪か。朝晩、冷えるからな」
弥子の肩に乗った父が心配する。
弥子は鼻をすすった。
「誰か噂してるのかな」
「万能薬――」
「いらない」
秋の空は天高く、どこまでも青い。
「全然、赤くならないね、この柿。いつ食べられるのかな」
庭の柿の木が食べ頃を迎えるのは、もうしばらくかかりそうだ。




