望月 ―― 蚕になった父と異世界へ
暗闇の中、無重力空間にいるような浮遊感が全身を支配する。ゴォゴォと唸るような音だけが聞こえていた。
「ここはどこ? 桑の木の中? それとも宇宙?」
弥子は不思議と恐怖を感じていなかった。
――父が蚕になってカレーを食べていた。
それを目の当たりにした今、大抵のことが起きても、もう驚くことはない。
やがて、ずっと遠くで微かな光が見えた。だんだん近づいてくる。どこか懐かしい……温かみのある優しい光だった。
全身を光が包み込んだかと思えば、目の前が真っ暗になり、地面にポンッと放り出された。弥子は両足を揃えて綺麗に着地を決めた。
「満点」
弥子はすぐに辺りを見渡した。空を仰げば、目が眩むほどの星々が輝いているが、地上を照らすほどの光は届かない。恐ろしく感じるほど闇が広がっている。
――月がない。
肝心の月が見当たらないのだ。
自分たちを飲み込んだはずの大木に触れてみた。
弥子は眉間にしわを寄せた。
「……細くなってる?」
四メートルはあったはずの幹が、半分ほどの太さになっている。
「そうだ、お父さん」
しばらくすると目が慣れてきた。弥子は急いで周囲を見回した。屈みこんで手探りで蚕を探す。地面でひっくり返ってじたばたともがいているのをようやく見つけた。指先で起こしてやり、手のひらを差し出すと、もぞもぞと肩まで登ってきた。
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫……だ……」
父の返事を聞いて、弥子はほっと息を吐いた。しかし、その安堵はすぐに奇妙な違和感へと変わった。
さっきまで、キッチンで包丁を握り、鍋をかき混ぜていた、自分の手。小さくなっている気がする。弥子は自分の体を触って確かめた。
着ていたはずのTシャツが肩が半分ずり落ちている。袖口は手首まですっぽり隠れている。
父もまた、弥子のその変化に驚いていた。言葉も出さずに娘の顔をじっと見つめている。二人の間に、張り詰めた静寂が流れた。
「子供になってるーっ」
その静寂を破ったのは弥子だった。
思わず上げた叫び声に驚いて、静かだった山が騒ぎ始める。木々にとまっていた鳥たちが、羽音を立ててザーッと一斉に飛び立った。どこからか聞こえてくる獣の鳴き声。遠くで遠吠えも響く。
「犬? 確か、狼って絶滅したんだよね」
暗闇の中、子供の姿では、何も出来ない。自分たちには見えていない獣が近くに潜んでいる。怖くないはずがない。震える足で立ち尽くした。
「どうしよう」
問いかけても、肩の上で蚕は、怯えて白い体を波打たせるだけ。弥子はむっとして。
「ちょっと、父親でしょう。なんか考えてよ」
娘にぴしゃりと言われて、父はハッとしたように蚕の体をひょろりと揺らした。いつもの頼りなげな、父の面影が、蚕の仕草に重なる。父はあわてて辺りを見渡した。
「……あ、えっと、そうだ。向こうの竹藪に逃げよう!」
父が小さな頭を指し示した先には、不思議に青白く鈍く光る竹林が広がっていた。まるで呼んでいるかのように。
「とにかく急げ!」
「あんなところに逃げて、本当に大丈夫なの?」
弥子は不安を口にしながら、駆け出した。後ろからは、枝を踏み折る重い音が近づいてくる。心臓が早鐘を打ち、口の中が緊張で乾く。
竹藪の中へ弥子は全力で飛び込んだ。獣の足音がもうそこまで迫っている。
「もう無理ーっ、こんな体じゃ走れない!」
さすがの弥子も泣きたい気分だった。小さい体は思うように動いてくれない。軽やかに走れない。それに加えて、すっかり大きくなってしまったデニムのパンツの裾が足元で絡まってくる。
「これ邪魔!」
弥子はデニムを脱ぎ捨てた。膝下まで隠れるほどぶかぶかなTシャツは、さすがに脱ぐのをためらった。子供といっても、心は十八歳の女子。弥子はシャツの中で体が泳ぐような感覚に苛まれながらも、必死に走った。
「弥子、もっと早く走れっ!」
父が小さな体を必死に伸ばし、ある方向を指し示した。竹の切り株が輪を描くように密集している。鋭利な切り口が空に向かって刃を向けているかのように、突き出ていた。
「あそこに隠れよう」
「うん」
竹を跨ぎ、輪の中へ入ると屈んで膝を抱え、背中を丸めて出来るだけ小さくなった。
なにか、覆うものはないか――小さくなった娘を守らねば。父がそう強く念じた途端、蚕の口から糸がスルスルと吐き出された。
それは途切れることなく出続け、弥子を囲む竹の切り株を覆っていく。今度は蜘蛛にでもなったのかと思えるほど、見事な絹の網が出来上がっていた。
暗闇の中、弥子は、ふと心配になった。
「光っていたら見つかるんじゃないの」
「うーむ、とにかく祈ろう」
父親の無責任な言葉に、弥子は思わず声をあげそうになった。ぐっと堪え、とにかく今は、見つかりませんようにと祈るしかなかった。
カサッ、パシッ、と枯葉や枯れ枝を踏みながら獣の足音が近づいてくる。弥子は怯えた。こんな小さな体じゃなかったら、木の上に登ってやり過ごすこともできたのに。
すぐ側で鼻を鳴らす音が聞こえ、絶体絶命か、と覚悟していたのに、なぜか獣の足音が遠くなっていく。気配が消えた。
「もしかしてこの糸のおかげ?」
弥子は目を丸くして、手のひらに乗る蚕を見つめた。蚕は糸を出し尽くしたのか、疲れたのか、気絶したかのようにふらりと弥子の指先にもたれかかった。
「お父さん……なんとか乗り切れたみたい」
光に包まれた空間は、外の冷気とは裏腹に、不思議と温もりに満ちていた。あれほど張り詰めていた恐怖が、守られているという安心感に塗り替えられていく。
急激な疲労が、小さな身体を襲った。弥子は耐えきれずに大きな欠伸をして、そのままゆっくりと目を閉じた。




