小望月 ―― 走り出したらとまらない
翌朝、弥子は小袖姿で離れの庭に出た。
弥子の生活にはルーティーンがある。菜園の自動水撒きが動いていることを確認した。屋敷に流れる小川から小さな水車で水をくみ上げ、竹筒に流れるようにした。竹筒にはいくつもの穴が開いており、そこから水滴が落ちていく。
蜜蜂の巣箱も順調で、蜜蜂は、今日も菜園に咲く花の蜜集めに忙しくしている。
摘んだハーブを籠に入れ、風通しの良い棚に並べ乾燥させる。
それから風呂掃除だ。樽の底の栓を抜けば、残り湯は、竹筒を通り絹のフィルターでろ過され、鉄の釜へ運ばれる。沸かした湯は、竹筒を通り、内樽へ貯められる仕組みだ。空になった樽をへちまでこすり、洗い流し、手拭いで拭く。
これらは全て父、月野海が設計したものである。
父が凄い人だということは認めるが、蚕になった原因と現代に戻る術については、さすがの天才もまだ解決できていない。
「あー、いい天気。よし、朝ごはん食べたら、出かけよう」
男装姿になった弥子は塀を越え、軽やかに着地した。
「今日も脱出成功」
すかさず立ち上がり、いそいそと山の方向へ歩き出したところで、随身が待ち構えていたように弥子をとり囲んだ。見覚えのある顔ばかりが並んでいる。昨日のメンバーだ。
「びっくりした。驚かせないでよ」
「どちらへ行かれるのですか」
「弥子さま」
「えーと、山かな?」
随身が大きくため息を吐いた。
「帝の仰られた通りでした」
「また帝。……ストーカーか」
弥子は不満そうにぼやいた。
「馬を用意しております。本日、帝は行事があるゆえ、外には出られません。弥子さま、私どもが宮中へご案内します」
「ねえ、昨日どうだったの。村は見つかった? 宮中に行きながら教えて」
「仰せのままに」
弥子を神と崇めた随身は、それは丁寧に調査の報告を始めた。
「村には、年寄りと赤ん坊、歩行のままならぬ男だけしか残っておりませぬ。働き手として使えそうな者は子供まで連れ去られ、目も当てられぬ惨状でした」
「誰の仕業なの?」
「隣村の者が借上をやっておるようで、どうやら女子供は、借金の肩に連れ去られたと、老婆から聞いております」
「どこに連れていかれたか分かる?」
「調査中でございます」
「借金するほど、貧しい村なの?」
「あの村は、腕の良い職人が大勢いることで有名なのですが、職人がみんな神隠しにあったと聞いております。働き手が突然いなくなり、借金するしかなかったとか」
「神隠し? ありえない。絶対、金貸しのやつが絡んでるって。そいつ捕まえて、白状させてやる」
弥子は馬の手綱を引き、突然反対方向へ走り出した。
「や、弥子さま。お待ちくだされ」
「なりません、お引き返しを」
慌てて随身たちも馬の向きをかえ、弥子を追いかけた。
一番足の速い馬に弥子を乗せてしまったことに随身たちは後悔した。並外れた運動神経の持ち主である弥子は、二度目だというのに、しっかり乗りこなしていた。まるで風神のように駆けていく。
「だ、だめだ。追いつかぬ」
「こんなことが帝のお耳にはいれば、大事であるぞ。我らの首が飛ぶ」
「弥子さま、危険でございます。……誰ぞ、宮中に戻って惟光殿に知らせねば」
「分かり申した。私が参ります。あとは頼み申した。必ずや、お引止めを」
土ぼこりをもうもうと上げ、先を走る弥子の背中を随身たちは必死で追いかけた。見失ってはならない。万が一、弥子が落馬でもしようものなら、首が飛ぶどころでは済まされない。代々家名を守ってきた己の一族の存亡に関わる危機だった。




