小望月 ―― 緊急事態
深く鮮やかな山の緑。豪快な水しぶきを上げて落ちてくる滝の音。どこまでも続く清流を目指して馬を連ねてのんびりと歩く。
「おー、すごい、まじで私、馬に乗れてる」
喜びの声を上げているのは、男装に扮した弥子である。その前を行くのは狩衣を纏った帝だ。帝は自分の馬に弥子を乗せたかった。しかし、かぐや姫から「一つ条件があるの。弥子に乗馬の練習をさせてほしい」と頼まれてしまい、距離を取られたようで、少々もやもやしていた。
帝は弥子とかぐや姫が同一人物であることを見抜いていたが、敢えて気付いていない、ふりをしている。
「分かっておるのに言えぬとは、なかなかにつらいものだ」
「何?」
「いや、そなたはいつも楽しそうだと申したのだ」
「人を能天気みたいに言わないでよ。えっ……待って、あれ見て。川辺に誰か倒れてる」
弥子は馬を止め、飛び降りると川辺へ駆け出した。帝も馬から降り、追いかけようとする。しかし、随身や、惟光に止められてしまった。
「主上は、ここでお待ちください。疫病に掛かっているやもしれません」
「何をしておる、弥子をすぐに連れ戻せ」
帝が大声を上げると、随身の一人が慌てて弥子を追いかけていく。
「弥子さま。お待ちください」
叫んだところで、止まるはずもなく、うつ伏せに倒れている子供の体を仰向けにすると、息をしているのか確かめた。子供の胸に自分の耳をつけ、鼓動を確かめる。
「息はある。でもすごく弱ってる……。救急車、あーもう、この時代にそんなのあるわけない。早く医者に診てもらわないと」
追いかけてきた随身が弥子の側で片膝を着いた。弥子は随身の肩をすがるように掴む。
「この子を馬まで運んで」
「なりません。疫病かもしれないのに、そのようなことは出来ません。弥子さまは、すぐにお戻りを」
「疫病? 熱もないし、ただ気を失っているだけかもしれないのに。このまま放っておけって言うの?」
「お辛いかもしれませんが、仕方ないのです。見たところ貧しい庶民、典薬寮に連れて行ったところで診てもらえません。亡骸は私どもが焼いて」
事務的に喋る随身にいら立ち、弥子は随身の肩を強く押した。
「ふざけたこと言わないでよ。この子は生きてるのよ。目の前で子供が死にそうなのに、なんでそんな酷いことが言えるの」
「もし、連れ帰った子供が疫病ならば、町がどれほどの惨事になることか分かっておられるのですか」
疫病が流行れば、大変なことになる。数年前、コロナが発生した。世界中がパニックになった。この時代の医療環境を考えれば、そう言うしかないだろう。
「し……知ってる。けど……見捨てたら、私は死ぬまで後悔する」
「さあ、参りましょう」
随身が弥子の腕を掴んで、引き戻そうとする。帝の命令は絶対だ。泣こうがどうしようが従わなければならない。随身が弥子を強引に子供から引き離そうとする。
「お父さん。例の薬、出せる?」
普段、人がいるところでは父親と会話はしないように気をつけていた。喋る蚕が見つかれば、何をされるか分からない。ましてや蚕は繭玉や金の絹糸を自由自在に吐き出すことが出来る。しかし、今は緊急事態。弥子は随身に見つかる覚悟で父に助けを求めた。
袂に潜んでいた蚕が袖口から顔を覗かせる。
「効くかどうかは、わからんが、飲ませてみなさい」
弥子の手のひらに尻を向け、蚕は小さな粒の蚕砂を出した。
「今、男の声が」
随身は辺りをきょろきょろと見回した。誰もいないのに、いったいどこから聞こえてきたのか。
「幻聴か? いや確かに男の声だった」
弥子は随身の手を振りほどき、子供に駆け寄った。そして随身の見ている前で、子供の口を開け、小粒の薬を押し込んだ。腰に下げていた竹筒の水を飲ませてやると、子供の喉が微かに動く。
随身は何かに怯えるように動けなくなっていた。
「すぐに戻ってくるから。待っててね」




