更待月 ―― 琴の音に魅せられて
演奏が終わって弥子は少し残念な気持ちになった。
(もう少し弾いてほしい。頼んだら、弾いてくれるかも)
「どうであった」
帝は琴の弦から指を離すと、満足気な表情を浮かべ、弥子を見据えた。
「もう一曲」
目をきらきらさせ、人差し指を立てて曲をねだる弥子の姿に思わず笑いそうになった。ごまかすため、軽く咳払いする。
「構わぬが、ではそなたは私になにを差し出す?」
「えっ」
「この私に向かって要求するならば、それなりの対価をもらわねばな」
対価……。確かに、ライブでもチケット代はかかる。お金、持ってないし。お父さん連れてこなかったから、繭玉も出せない。
「うーん。対価か……対価、対価。あっ、そうだ。あれ、持ってきたんだ」
弥子は脇に置いてあった壺を手に取った。
「女子会で食べようと持ってきた菓子。これ上げます。だから、もう一曲弾いて」
無邪気なお願いに帝の顔が緩みそうになる。周囲には惟光や蔵人、随身たちが控えている。
(威厳を保つのが難しくなるではないか。しかし、そなたの望みはなんでも叶えてやりたくなるのだから、困ったものだ)
「客人をもてなすと言った手前、断るのも無粋というもの。致し方ない、もう一曲、弾いてやる」
控えている惟光は周囲に気づかれないよう俯き、肩を震わせていた。
(主上、仕方ない、なんて思っていませんよね。もはやいい訳にしか聞こえません。嬉しいというお気持ち、痛いほど分かります。ああ、じれったい。早くお二人が結ばれるといいのに)
水に浮かぶ蓮の花。夜空を駆け巡る琴の調べ。揺れる灯台の火が幻想的な時を刻む。
弥子は膝を抱え目を閉じた。
(初めてこの世界へ来た日を思い出すなぁ。真っ暗で怖くて、自分がどうなってしまうのか、分からなくて。不安で、不安で……。
それにしても、この人、オーラが凄いな。
川辺で会った時は、嫌な奴だと思ったけど、うざい貴族を追い払う提案してくれたし、強引だけど、もてなしてくれているみたいだし――)
弥子は目を開けて、目の前で流れるように琴を操る男を見つめた。
(威圧的で支配的で偉そうで。でも威厳があって、さりげなく優しい一面もあって――この琴の音と一緒だね。
元の世界に戻っても、きっとこの音だけは消えない気がする。
この不思議な気持ちは何なのだろう。琴の音が胸の奥に突き刺さるみたいに痛い)
「姫よ、いかがした」
「えっ」
「なぜ、泣くのだ」
帝に言われて初めて、自分が泣いていることに気づいた。
「あれ……。あれ……。分からないけど……涙が」
とまらない。取り止めなく溢れてくる涙を手の甲で拭おうとする。ずっと堪えていたものが溢れてくる。この世界に来た時から今日までのことが走馬灯のように駆け巡る。父を元に戻す方法が分からない。帰り方も分からない。苦しい胸の内を琴の音が慰めてくれているような気がして、泣いてしまった。
気が付けば、帝の腕の中にいて、しがみついていた。
「安心せよ。そなたを傷つける者は、ここにはおらぬ」
低く、優しい声が心に染みる。
(本当は、とてもいい人なのかもしれない)
帝の指先が弥子の顎を持ち上げた。はらりとフェイスベールが弥子のひざ元に落ちていく。帝の影が弥子の影と重なり、二人の唇が触れるか触れないか――その瞬間、弥子の手が帝の顎を押しのけ、さっと立ち上がり距離をとる。
「あぶなっ。ちょっと気を許したら、すぐこれだ。もうっ」
弥子の態度に帝はおかしくなり声を上げて笑った。
「はははは、まこと惜しかったわい」
「ったく」
弥子は帝を睨みつつ、畳に落ちているフェイスベールを拾った。月の明かりに照らされて、弥子の顔がはっきりと見える。帝は目を細めた。
「ひさかたの 夜にうきたつ 面影に 心あらねど 月はゆるさじ」
「えっ」
(いきなり、和歌を詠まれても、紙に書いてくれないと……解読できない)
おろおろする弥子の不意を突き、帝が抱き寄せた。
息が、心臓が、止まるかと思った……。
初めての口づけに――
空を流れる川と眩い月が二人を包み込む。
愛しい人、愛しい人――




