望月 ―― 父、蚕になる
今夜の献立はチキンカレー。じゃが芋、人参、玉ねぎ。鼻歌を歌いながら材料を並べ、手際よく包丁を入れていく。
コトコトと鍋が煮立つ音を背に、リビングのテレビに目をやる。ニュース番組も終盤、人気の気象予報士が軽快な声で告げた。
「――今夜は、ストロベリームーンです。恋愛成就のパワーがある、願いが叶う、なんて言われているんですよ。皆さんもぜひ、夜空を見上げてみてください」
窓越しに空を見れば、夜を支配するように大きく、そして妖しいまでにオレンジ色の光を放つ月が浮かんでいた。
その時――研究室の方から、ガラスが割れる音と、悲鳴が聞こえた。
「えっ、なに?」
弥子は研究室の扉を勢いよく開けた。
「お父さん、どうしたの?」
だが、そこには父の姿はなく。実験台の上で蚕がうねうねと動いている。
「……お父さんの薬、効いたんだ」
弥子の声に反応してか、蚕がピタリと動きを止めた。蚕の視線の先には、実験台の端に置かれた、琥珀色の液体が入った大きな瓶がある。
「なんじゃこりゃあぁぁぁっ!」
父の悲鳴とともに、蚕の口から「ぽんっ」と勢いよく、真っ白な繭玉が飛び出した。コロコロと転がる繭。それを見て、蚕になった父は絶句した。
「何をどうしたら、こんなことになるんだ」
……いま、確かにしゃべった?
「……お父さん?」
「そうだ、お父さんだ。とにかく、原因を追究せねば――おや?」
机の上でいったりきたりする蚕が、急に足を止め、顔をあげた。
「随分と美味そうな匂いがするな。今夜はカレーか」
弥子は眉間にしわを寄せた。虫って鼻がきくの?
「弥子のカレーは美味いからな。ジャガイモは大きめにしてくれたか」
蚕がカレー食べるの? 弥子は一瞬悩んだ。待って、待って、待って。
「違うでしょーっ。なに悠長なこと言っているの」
「いやしかし」
「考えたくないけど、認めたくないけど、お父さん、ほんとうに蚕になっちゃったの?」
これは夢だと思いたい。しかし父は研究者で、これまでも変なものを色々開発してきた経緯がある。
「自分の父親が蚕だなんて、恥ずかしくて人に言えないよーっ」
「おい、それはどういう意味だ。小さい頃から二人で仲良くやってきたのに。娘に冷たいことを言われたら、父さん泣いちゃうぞ」
「落ち着け、私」
弥子は大きく息を吐いた。
「腹が減っては戦はできぬ。とりあえずご飯にしよう。食べたら知恵が浮かぶかもしれん」
そう言って、ひょいと蚕が弥子の肩に飛び乗った。
「そうだね、そうしよう」
弥子はダイニングテーブルに蚕をそっと置いてから、鍋の前に立った。振り返って蚕をチラッと見る。本当にお父さん、だよね。
焦げないように鍋をかき混ぜながら、こんなこと誰に相談すればいいのかな、と考える。
お母さん? いや、だめだめ。弥子は首を横に振った。
母は今、遠く離れた海外にいる。だいたい、父の怪しい研究を母は昔からあまり好ましく思っていない。こんな話をしても信じてもらえるはずがないし、一蹴されるのが関の山だ。
小さじ一杯分のご飯とルーをカレー皿に盛って、テーブルに置く。それから蚕を皿の上に乗せてやった。
ぐったりして元気がなかったのに、まるで別蚕みたい。しかも信じられないことにカレーを食べている。
どうしてこうなったの?
弥子は帰ってきてからのことを思い出してみる。お父さんの薬のせい?
「ねぇ、お父さん。……その桑の葉。あれ、どこから採ってきたの?」
カレーのルーで口の周りを黄色くさせた蚕が、ゆっくりと顔を上げ、弥子を見た。どういう表情なのかは分からないが、しばらく考え込むような沈黙が流れた。
「……うちの裏山だ。そこに桑の大木があるんだ」
小学生の頃、一度だけ入ったことがある。竹が鬱蒼と茂り、日も当たらず、じめじめとしていた。なんとなく不気味で、怖くなってすぐに引き返した。
……あの山に、大きな桑の木が生えていることも知らなかった。
お腹空いた……。私も食べよう。
弥子は自分の皿を手に取り、無言でカレーを口に運んだ。いつもの味だ。我ながら美味しい。
カレーをお代わりするか悩んでいる蚕を見て、お腹を壊さないのかな、心配しつつも、スプーンを動かす手を止めなかった。
この非現実的な光景が夢なら早く覚めてほしい。




