更待月 ―― 仏の御石の鉢
「姫さま」
休憩室で、弥子が蜂蜜の壺を棚に戻していると、慌てふためいたような声で外から下女が呼ぶ声がする。
「どうしたの?」
簾越しに弥子が聞くと下女は、息を切らしながら「石作皇子がお越しです」と言った。
弥子は振り返り、足元の蚕と目を合わせた。帝の言った通り、石作がやってきた。
「会いたくないから、お帰りください、と伝えて」
つっけんどんに返されて、下女は困惑したように立ち尽くした。
「ですが、姫さま……あの方は『どうしても一目お会いしたい』と、手土産まで持参され、追い返すような真似は出来ぬと主さまも申されて、すでに中でお待ちです」
「はぁ? 入れちゃったの? 勝手にそんなことしないでよ。とにかく、すぐ追い帰して。おじいさんには後で私から話しとくよ」
「承知しました」
走り去る下女の足音が聞こえなくなり、弥子は簾の横から外をのぞいた。蚕が弥子の小袖の裾に飛びついて、肩まで這い上がってきた。
「また来るぞ」
下女が言うには、翁が何度も頭を下げ、石作はしぶしぶ帰っていったらしい。「出直してくる」と言い残して。
そのうち、翁が血相を変えて乗り込んでくるだろう。弥子は単を羽織ると、部屋に戻ることにした。
予想した通り、翁が部屋の前までやってきた。翁も必死だった。なんとか、かぐやを説得しようと試みる。先日の宴の件もあり、かぐやが結婚に乗り気ではないことは翁も分かっていた。しかし、相手は皇族。こう何度も押しかけられて、断るのも一苦労。自分の気持ちも察してほしいと身振り手振り、大げさなほど感情表現をして見せた。
「また来ると申しておる。何度も足を運ばれるほど、かぐやと結婚したいと思っておられるのだ。こんなに望まれて結婚するのだから幸せになれるはず。一度、話をされてみてはいかがかな」
御簾越しでも弥子の溜息がはっきりと聞こえた。ああ、やはりだめだったか、と翁は踵を返そうとした。ところが。
「分かった」
翁は目をぱちくりさせた。慌てて御簾に張り付いた。
「そこまで言うなら話をしてもいいよ。私、ずっと欲しいと思っている物があるの。それを持ってきてくれたらね」
「欲しい物? 高価な着物かな。それとも町では手に入らぬ金銀を散りばめた漆塗りの櫛か……」
「天竺にあると言われる仏の御石の鉢よ」
「天竺? またそんな無茶な」
翁は呆気に取られ、しばらく口をぱくぱくとさせていた。
「天竺まで往復するのに、どれほどの年月がかかると思っておる。そんなものは、到底無理な話……」
「石作皇子は地位も名誉も持ち合わせた立派なお方なんでしょう。天竺まで行って仏の御石の鉢を手に入れるくらい容易いことじゃない? 出来ないって言うなら私への愛情もその程度。そんな相手とは、とても結婚なんてできないわ」
翌日、予期せぬほど早い再訪だった。
朝の涼しいうちに、弥子は屋敷の端にある菜園の片隅で、香りのよい草花を摘んでいた。蜜蜂が花の蜜を集めては巣箱へ戻っていくのを見守りつつ、朝露を纏った葉の感触を確かめる。
「いい香り」
そこへ、母屋のほうから息を切らした下女が駆け寄ってきた。
「姫さま……! 姫さま、大変です!」
下女は砂利を踏みしめる音も荒く、息を弾ませて弥子の足元まで駆け寄ってきた。弥子は花籠に花を入れると、振り返った。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「また、石作皇子さまがいらっしゃいました」
「ああ、また来たの。大丈夫、翁が追い返してくれるから」
弥子はそう言って笑って見せた。
翁は、かぐや姫の条件を、なんとか角の立たぬよう言い換えて石作皇子に伝えた。
「……まことに、かぐやはいたく感激しておりました。しかし、かぐやには幼い頃からの願いがございましてな……天竺にあるという『仏の御石の鉢』を、この目で一度見てみたい、と。かぐやは、類まれな女子。贈り物に、どれほど皇子さまの真の心が込められているのかを知りたいのでしょう」
翁は、自分はあくまで仲介役に過ぎないという体裁を整えようと必死だった。石作皇子の機嫌を損ねず、かつ娘の無理難題を「気高き姫の願い」として美化して伝える。
「……仏の御石の鉢、か」
回廊に響いた石作の声は、驚くほど静かで、確かな確信に満ちていた。
「なるほど。弥子殿は、並の宝石や金銀では心を動かされぬということか」
石作は、唇の端をわずかに持ち上げた。彼は脳内で、その難題を拒絶ではなく試練へと変換させた。
(賢く美しい気高き姫は、どこにでもいるただの男と結婚すると恥じだと申しておるのだな。見栄を張っておるのか、ならば叶えてやろう。姫を娶らば私の名がさらに高くなるというものよ)
「……いや、謝る必要はない。むしろ、教えてくれて感謝する。姫は、私の覚悟を試しておられるのだ。……天竺か。容易く手に入るような宝では、かえって姫の気高さを汚すというもの。この石作、必ずやその鉢をこの手にし、持参しよう」
石作は背筋を伸ばし、自信を湛えて門を後にした。途中、振り返って竹取の屋敷を見上げる。そして姫の喜ぶ姿を浮かべた。
(感激して、石作皇子、どうか私をお連れくださいませ。などと申して、御簾から飛び出してくるやもしれん)
石作は肩を震わせながら嬉しそうに帰っていった。




