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有明月 ―― 帝

 まだ空が薄青く、夜の冷気が地面に滞っている。

 屋敷の中は静まり返っていた。引き戸に閉ざされた建物は深い闇に包まれ、使用人たちが朝の支度を始めるまでには、もう少し時間があるようだ。


「まだ目が覚めない……」


 弥子が欠伸を噛み殺すと、袂の中で蚕がもぞもぞと動いた。


「まったく、こんな暗いうちから呼び出すなんて、何か企んでいるかもしれんぞ。気をつけろよ」


 男装した弥子は軽々と塀を越えた。まるで忍者にでもなった気分だ。器械体操や武道も、忍者に憧れて始めたもの。


(隠密っぽい、なんだかにやけちゃう)


 口元に笑みを浮かべたまま着地する。


 屋敷の裏、竹林の道はまだ影に包まれていた。だが、その影の中に、見覚えのある男が立っていた。男の纏う直衣(のうし)が、夜の闇に同化している。やがて竹林の隙間から細い一筋の光が差し込み、男の端正な横顔が浮かび上がる。

 一瞬、弥子の胸が大きく跳ねる。


 手綱を握り、愛馬を優しく撫でるその横顔は、あまりにも凛としていて、古びた絵巻物から抜け出してきたかのように美しい。


 ――光が眩しいのか、それとも、この男の姿が眩しすぎるのか。


 昨晩まで「横暴な貴族め」と悪態をついていたはずの心臓が、今は別の理由で早鐘を打っている。


「若君」


「随分待ちわびたわい」


 見た目は最高なのに、口を開けばこれだ。弥子は口をとがらせる。


「こんな時間に呼びだして、なんの用?」


 そのあまりに軽率な口の利き方に、周囲に控えていた随身たちが一斉に息を呑み、顔色を変えた。主君に対し、恐ろしくも身分をわきまえない砕けた態度を見せたのだから無理もない。


「この無礼者っ! 帝の御前であるぞ! なんと罰当たりなことを……! 身の程知らずの小童(こわっぱ)め!」


 随身は怒りに震え、手が反射的に腰の太刀の柄へと伸びた。竹林に、冷やりとした金属音が響く。


「黙れ」


 男の口から放たれたのは、凍りつくような冷徹な響きだった。弥子の目が点になる。


(今、なんて?  帝?   この国で一番偉い人?)


「みかどーっ!」


 弥子の頭から眠気が一気に吹き飛ぶ。


「こっちへ参れ」


(無理、無理。そんなの無理でしょう。こんなのと関わったらもっと大変なことになる)


 弥子の本能が引き返せとサインを出している。


「えーと、あ、忘れてた!姫さまの猫に餌やなきゃ。そういうことなので、じゃあ」


 逃げようと足を踏み出した瞬間、体がふわりと浮いた。視界がぐらりと傾き、声を上げる間もなく、弥子は帝の愛馬の鞍へと力任せに乗せられた。間髪入れず、帝が背後から鞍にまたがる。弥子をすっぽりと覆い隠し、逃げ場はどこにもない。


「やはりそなたは面白い」


 耳元で囁かれたその声は、朝の冷気以上に冷たいようでいて、微かに熱を帯びていた。


「私は面白くないっ。それよりおろして、猫に餌をやらなきゃ。ねぇ、ちょっと、聞いてる?」


 昇り始めたばかりの朝日が、竹林を黄金色に染めていく。帝はその光を背に、逃げ道そのものを力強く封じ込んだ。


 帝は喉の奥で愉快そうに低く笑うと、馬を走らせた。


「聞いてなーいっ!」


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