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有明月 ―― わか

「いい湯だな、ふふーん。いい湯だな、ふふふん」


 竹取の翁の屋敷、その最も奥まった離れに隣接する湯殿から、この時代にはあまりに不似合いな鼻歌を歌う者がいた。


「美しく賢い姫」「神の子」と噂されるかぐや姫こと、現代の女子大生、弥子。彼女は今、極上のリラックスタイムを満喫していた。


 トリートメントを洗い流し、髪を束ね、手拭いを頭に巻く。たっぷりのお湯を張った樽に足を入れ、そのまま勢いよく腰を下ろした。ざーっ、と景気よく湯が溢れ出し、樽の縁を伝って床へと流れていく。肩まで浸かるとなんとも言えない心地よさに、おじさん化した長い息が漏れた。


「ああああ、気持ぢいいーっ」


 庭に実る柑橘系の果物を湯船に浮かべれば、まさに至福の時。


 使用人や大工たちを使い、ついに完成させたこの湯殿。父の理論と監修、弥子のセンスが詰っている。


「ほんと、お風呂って最高だわ」


 弥子は湯船から上がると、手早く身体を拭き、薄く柔らかな白い絹の小袖を纏った。


 湯殿に隣接する休憩室にもこだわりが詰っている。風通しの良い入口に棚を置き、蜂蜜の入った壺や菜園で摘んだハーブ、果実の入った籠を並べ、風に乗って届く爽やかな香りに癒される。

 これらは全て、石鹸、シャンプー、トリートメント、化粧水作りには欠かせないもので、弥子にとってそれは無くてはならないものになっていた。


 柔らかな日差しが差し込み、畳の上に心地よい陰影を落としている。壁際の竹製ベンチの上では、真綿を詰め込んだシルクのクッションを敷いた小さな竹籠の中で、蚕がすやすやと昼寝をしている。


 小台の上には父が設計した小さな壺が置かれており、弥子はそれに手を伸ばした。

 この壺は、二重構造の焼き物の間に水を張ることで、外気の熱を遮断し、井戸から汲み上げたばかりの水を冷たく保つよう工夫されている。


 木の器に絞った夏みかんの果汁を冷えた水で割り、弥子が養っている蜜蜂から採れた蜂蜜を加えた。かき混ぜると、清々しい香りが立ち上る。


「ドライヤーがあるといいのに。まぁ……お風呂に入れるし、これ以上望むのは贅沢か」


 弥子はベンチに腰を下ろした。竹の硬い感触が背中に伝わり、涼やかな風が通り抜ける。絹のタオルを頭から被り濡れた髪を拭いた。体から髪から良い香りがする。草花や果物を使って配合したバスアメニティも父の指示のもと作られたものである。


 ジュースを一口含むと、爽やかな甘みが乾いた喉を潤していく。


「姫さま」


 外から下女の声がする。


「よろしいですか。姫さま宛に文が届いております」


 弥子が簾の隙間からすっと腕を差し出すと、下女は恭しく文を捧げ持った。


「明日、返事を取りに来られるそうです」


「誰だろう。また宴の誘いとかじゃないでしょうね。せっかくいい気分だったのに」


 石作皇子の傲慢な歌が脳裏をよぎり、背筋がぞくっとした。


「うわっ、あいつの和歌を思い出しただけで、鳥肌立った」


 しぶしぶ、文を開く。文の主が石作ではないことだけは分かった。不思議なことに相手が随分と気を遣っているように思える。石作の字と比べると、読みやすい。まるでこの主は、弥子が続け字を苦手としていることを分かっているかのようで、とても丁寧に書かれていた。



「からころも 袖にまがつる 面影を いかで見せむと あした待つらむ」

(袖にうつろい紛れてしまったあの面影を、どうすれば日の光のもとで見ることができるのか、朝が来るのを待ちわびている)



 弥子は首を傾げた。どういう意味? 文字は読めたが意味が分からない。


「袖に紛れる……面影? 隠くしてないで見せろってこと?」


 差出人は誰なのか。分かっていることは、どこかの貴族ということだけ。弥子はジュースを飲みながら考える。


 貴族たちにとって、和歌とは、政治や社交、恋愛に欠かせないツールであった。直接顔を合わせないがゆえに、教養の深さを測る術として簾越しに歌を披露し、相手のセンスや容姿を勝手に妄想し、恋に落ちる。

「面影」という言葉ひとつとっても、互いを理解していなければ、思いは伝わらない。歌の中に隠された言葉を想像し、読み手の心情を図ることが大事なのである。


 競技かるたをやっていただけで、現代訳のない歌は、記憶を辿り、似通った歌から読み解く弥子にとって、なかなかハードルの高い作業であり、実に厄介だった。ましてや、それに対して返事を書くことはさらに難しく、言いたいことを書くだけで精一杯であった。


「意味が分からない。はっきり誰のことか分かるように書けっちゅーの」


 彼女にとってその歌は、高貴な身分ゆえに傲慢なだけの、取るに足らない存在からの押し付けでしかなかった。知らない相手から届いた文など無視すればいい、と思う反面、相手の意図が掴めず、何が言いたいのか気になり、確かめたいと思い返事を書くことにした。


 翌日、弥子は下女に文を預けた。下女から使いの者へと手渡され、その文は主の元へ届けられた。



「からころも 袖には何も なきものを いかなる人と 問へる君ぞも」

(隠しているものなど何もございません。それより、あなたは一体どのようなお方で、そのようなことを問うておられるのですか)



 届いた文を開き、帝はその歌を二度、三度と読み返した。

 喉の奥から込み上げる愉快な震えを必死に抑え込む。蔵人頭や近習たちの前で、帝である自分が女の返歌に笑い転げるなど、威厳に関わる。

 指先で文を丁寧に折り畳みながら、帝は薄く唇を歪めた。


「気づかぬか。ならば」


 帝はさらに、次なる文を送った。



「隠すとも 越えし垣の あらはにて 我に差し出せ 仕ふる若を」

(隠そうとしても無駄なことだ。塀を軽々と越えてゆく身のほどは既に露見している。私のもとへ、仕えているあの若者を差し出しなさい)



 それを読んでようやく弥子も理解した。あのとき、馬で送ってくれた男だと。


「塀を飛び越えたところ、見られてたんだ」

「なに、それはさすがにまずいだろう」


 弥子と蚕が顔を見合わせる。あの貴族は弥子が娘だと知っている。塀を飛び越えて屋敷に戻ったところも見ていたとなると……。


「つまり、私をかぐやの隠密だと思っているのよ。私を呼び出して、かぐやのことを聞き出そうとしているのかも。女なのに男の格好をしていたから怪しまれたんだ」

「どうする」


 弥子は溜息を吐きながらも、覚悟を決めたように腰を上げた。


「行く。余計な噂を立てられると、今後この町での行動がしにくくなるもの」


 弥子は手に持っていた文をぐしゃりと握りつぶし、荒い息を吐きながら勢いよく言い放った。


「行って、口封じ……じゃなくて、秘密を守るよう直談判してくるわ」

「行くって、どこへ? そいつがどこにいるのか、分かっていないだろう」

「あ……そうか。じゃあ、また返事を書く」



 姫の返事が届くと、帝は待ちかねた様子で文を広げた。頬が緩むのを必死にこらえながら、その歌を読み上げる。……そなたは、どこまで私の心をかき乱せば気が済むのか。



「そこまでに 言わば貸しなむ 若人を 日暮るる前に 返したまへよ」

(そこまで仰るのならお貸ししましょう。ですが、日が暮れる前に必ず返してくださいね)



 相変わらず気が強い。――娘よ、早く私の前に現れてくれ。そうしなければ、私は今すぐにでもその屋敷へ押し入り、そなたをさらってしまいそうだ。



「竹の葉の そよぐ裏戸の 夜明けかな 契りし君を 迎えに行かむ」

(竹の葉がそよぐ裏戸よ。もうすぐ夜が明ける。その刻に、約束した君を迎えに行こう)



 帝の胸のうちには、抑えようのない高揚感があった。もはや宮中のしきたりや近習たちの目など、帝の視界には入っていなかった。信頼の置ける使いに厳命を下した。


「竹取の姫に一刻も早く届けよ」


 その日の夕方、届いた文を見て弥子は「はぁ?」と思わず大きな声を出してしまった。使用人たちにも聞こえていたに違いない。


「明日の夜明けって、早すぎるっ」


 この時代の男は、勝手なことばかり言う。それが普通なのか。


「横暴な貴族め」



 帝の胸の内などつゆ知らず……。



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