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隠月 ―― 逃走

 御簾を潜り、廊下を見る。翁の少し後ろを歩く使用人を呼び止めた。


「ねぇ、手紙書いたから持って行ってほしいの。あと、石作皇子が送ってきた贈り物も一緒に返してきて」


 それを聞いた翁が秒で飛んできた。


「……石作皇子から届いた品々を、そのまま送り返すだと?」


 翁が目を丸くして、信じられないものを見る顔で弥子を見つめた。


「せっかくの好意を無下にするような真似は……。あのような高貴な方からの贈り物、普通は二つ返事で受け取るのが道理であろうに」


 ここからまたひと騒動だった。翁が宴に行くべきだと言い出したのだ。


「……かぐや。私は、そなたがいつまでもこの小さな庵にいることを望んでおるのではない。そなたのような気高い姫は、それ相応の屋敷で、誰からも敬われ、幸福に暮らすべきだと思ったのだよ」


 翁は弥子の手元にある結び文を悲しげに見つめた。


 かぐやが差し出す、世にも稀な輝きを放つ高級な絹糸。翁はその糸を売り捌いて莫大な富を築き、都の有力者が代々守ってきた邸宅を、庭園ごと丸々買い取った。誰もが羨む暮らし、贅沢三昧、しかし手に入れたくても手に入らないものがある。


 貴族と呼ばれる者たちの高い地位――


 翁の狙いは明らかだった。

 石作皇子との縁を結んで高い地位さえ得れば、これまで自分たちを成り上がりと陰で噂していた貴族たちも、その権威の前に口を噤むしかない。


(かぐやは貴族の正妻として迎え入れられ、一生涯、敬われて暮らすだろう。そして、その後ろ盾を得てこの私も貴族社会の頂点へ登り詰めることができるのだ)


 翁は信じて疑わなかった。


「石作皇子というお方は位が高い。地位もあれば富もある。正妻として迎え入れられたなら、これ以上ないほど幸せになる……。この先、困ることもない。そなたの幸せを、ただそれだけを願ってのことなのだ」 


 翁の言葉を冷ややかに聞いている者がいた。蚕となった弥子の父、月野海である。


(結局は自分も貴族社会の仲間入りをして、いい思いをしたいだけじゃないか)


 父は心の中で毒づいていた。


 自分が大切に育てた娘を裕福な貴族の妻という、翁にとって都合の良い形に当てはめようとするのは納得がいかない。父は、怒りのあまり、袖の中で暴れた。


(私の娘を、金や地位と引き換えに売り渡すつもりか……。そんなこと絶対に許さんっ)


 結局、翁を説得しきれなかった。弥子は深いため息をついた。誰に頼んでも翁に厳しく言い含められているのか「申し訳ございません」と逃げていく。


 そうして、とうとう宴の当日になってしまった。


 翁が用意した牛車を見て、弥子は苦笑いした。それでなくても初めて着る十二単、贈り主が石作というだけで、その何十倍も重く、足枷のように感じる。


(隙を見て逃げる。もうそれしかない)


 大きな木々が街道の上に幾重にも重なり、天然のアーチを作り出している。弥子は御簾越しに外の様子を伺い、枝までの距離を確認すると、弱々しい声で供の者たちを呼んだ。


「とめて」


「姫さま、どうされました」


 供の者が牛車をとめ、御簾の傍へ寄る。


「車に酔ったみたい。気分が悪いの」


 宴に遅れたら翁に叱られないか、供の者たちは顔を見合わせる。


「姫さま、車をもう少しゆっくり走らせ……」


「すぐに良くなるから、少し休ませて。その間、みんなも休んでちょうだい」


 供の者たちが木陰へ向かったのを確認するや否や、弥子は即座に動いた。髪を無造作に束ね、十二単を素早く脱ぎ捨て、中に隠し着ていた男物の小袖姿になる。そして牛車の縁を掴み、一気に屋根の上へ躍り出た。


 檜皮の屋根は不安定な足場だったが、弥子にとっては、まるで練習し慣れた平均台のようだった。わずかな傾斜にバランスをとりながら立ち上がる。そして反動をバネに、踏み切った。頭上の枝を軽やかに掴み取り、鉄棒の要領で体を美しく回転させると太い枝に跨った。


 弥子は木の茂みの中に身を潜め、じっと息を殺した。


 何も知らない供の者たちが戻ってくると、牛車を再び走らせ始めた。弥子は枝から、遠ざかっていく牛車をにんまり笑って見送った。供の者たちが宮中で「姫がいない!」と騒ぎ出すのは、まだずっと先のことである。


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