隠月 ―― お・こ・と・わ・り
宮中の宴より、少しばかり時を遡る。
弥子の屋敷に、一通の文と山のような贈り物が届けられた。贈り主は石作皇子である。
上質な紙に、これ見よがしの金粉が散りばめられた、見るからに重苦しい招待状だ。弥子が怪訝な顔で広げると、宴への誘いが記されていた。
「天の原 雲隠る月も 我が世の光 思ひ届かば いかで現れ」
(天の広き空で雲に隠れている月であっても、私の世においては光そのもの。私の贈り物が届いたならば、どうして姿を現さぬことがあろうか)
「気持ち悪っ。なにこれ。石作って、確か……」
弥子が眉をひそめると、肩に乗った蚕が覗き込んで、鼻で笑って言った。
「かぐや姫に求婚した貴族の一人だな」
「大量の品を送りつけてきて。宴に届いた着物や香をつけてこいってこと? ……見ず知らずの男の人だよ。怖いしっ。ほら鳥肌立っちゃった」
弥子は露骨に顔をしかめ、腕を摩った。豪華な十二単や香の包みも、迷惑なだけの代物だ。蚕も呆れたようにそれを見下ろした。
これに関われば、またろくでもない騒動に引き摺り込まれるのは目に見えている。先日、些細なことから喧嘩をし、父が三日間にわたってふて寝のストライキを決行したばかりだ。
ようやく仲直りをして平穏が戻ったというのに、またしても面倒な風が吹き込んできたことに、弥子は頭を抱えた。
「……で、これどうやって断ればいいの? この時代、返信ハガキとか、気の利いたものはないの? 結婚式の招待状みたいに『参加・不参加』の欄でもあれば、秒で『不参加』に丸して返せるのに」
弥子はため息をつきながら、届いたばかりの雅で重たい紙切れを丸めると、部屋の隅に置いてある竹籠へ投げ捨てた。
「断りの手紙を送るのがいいだろう。相手が何と言おうと、行かないという意思表示だけは明確にしておかなければならん」
父・蚕の言葉に、弥子は「わかった」と即座に納得し、迷いなく硯に向かった。さらさらと筆を走らせ、書き上げたのは墨跡も鮮やかなたった三文字だけ。
『不参加』
弥子が満足げにその紙を掲げた瞬間、蚕が飛び跳ねる。
「待て待て待て、さすがにそれはまずくないか! 相手は皇子だぞ。いくら何でも、その簡潔すぎる返事は相手への侮辱と取られる……いや、取られる以前に、まともな社交の文ではない!」
蚕はどうにかして「角を立てずに断る」という古式ゆかしい言い回しをひねり出そうと、冷や汗を流しながら頭を抱え始めた。
「普通は、季節の挨拶から始まって、相手の厚意に感謝しつつ、でもどうしても外せない用事があって……という、『行きたくない』を何重にもオブラートに包むのが礼儀というものだろうが」
「そんな回りくどいことする必要があるの? 『興味ないから行きません』って書いて送りたいくらいなんだけど」
弥子は不満げに頬を膨らませるが、蚕は「それこそが最も避けるべき最悪の選択肢だ」とばかりに、必死に頭の中で敬語を組み立てている。
「和歌で返すのが一番無難かな。相手も和歌を送ってきたのだからな」
父は、溜息交じりにそう提案した。
弥子の目が丸くなる。
「和歌……と言えば」
頭に浮かんだ歌を口にする。
「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ。あーダメだ。これ恋の歌だ。じゃあ、これは。かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを。私には他に思う人がいる。あなたなんて眼中にないって……。思う人……」
何故か、若君の顔がチラつく。ないないない、弥子は首を横に振った。
弥子は唇を尖らせ、せっかく思いついた名歌を自ら打ち消した。地域交流から競技かるたにはまり、勝つために必死で覚えた歌。中三になると、歌人たちがどんな心で詠んだのか、深い意味に思い巡らせるようになった。その歌を石作のような男のために汚すなど、許せるはずがない。
「……じゃあ、もういっそ、誰も見たこともないような歌を詠んでやる。借り物じゃなくて、今の気持ちそのまんまの」
過去のどんな名歌にも頼らない、冷ややかなほどに鋭利な言葉をいくつか並べてみる。そうしてようやくできたのが。
『誘へど わが心今は いかさねば あづさゆみ引く 座にはゆかず』
「どうかな? 誘ってくれたけど、今は行きたくありません、って書いたつもり、なんだけど。意味あってるかな……」
父がうんうんと頷いた。
「さすが、競技かるたで入賞しただけはあるな。ちゃんと和歌らしく聞こえるぞ」
「入賞は、中学二年の一度っきりだけどね。短い歌の中に自分の気持ちを込めるって意外と楽しいかも。ちょっと、はまりそう」
弥子は硯の横に積み上げられた紙の束から、一枚の紙を手に取った。真っ白な紙ではあまりに突き放しすぎているし、かといって華やかな色紙は相手を勘違いさせる。わずかに黄色みがかった紙を選んだ。しかし、習字の経験はあるが、平安時代の文字は書けない。
「まぁ、読めたらいいか。できるだけ、丁寧に書かないと、こっちの人でも読めるように……と」
弥子は慎重に、一画ずつ筆を運んだ。現代のペン習字のような、一点の曇りもない楷書に近い文字が、古い時代の紙の上に黒々と躍る。
「できたっ。我ながら、いいんじゃない。よし、じゃあさっそく届けてもらおう」




