弓張月 ―― 宴
宮中、日も傾きかけた時刻――
華やかな夏衣を翻した貴族たちが、母屋に面した床に連なっている。湿った空気に酒の香りが混じる賑やかな宴から庭を見下ろせば、草木が静かに風に揺れていた。
この宴の主、石作皇子は帝の遠縁ではあるが、政治の舞台には興味がなく、ただ悦楽にのみ、精力を注ぐ人物である。貴族や高貴な姫たちが集まり、美酒や豪華な食事が振る舞われ、管弦の調べと歌が舞っている。まさに都の華やぎを象徴する行事であった。
石作は、この宴のために贅の限りを尽くしていた。それは未だに現れない、姫のためである。初夏の青々とした風が吹き抜ける中、冬の間に山奥の氷室から運び出させた貴重な氷を、彼は惜しげもなく振舞っていた。
(今日は帝を差し置くほどの客を呼んでいる。現れたら、皆の驚く顔が見ものだ。……それにしても、なぜ未だ来ぬ)
石作は、御簾を垂らした空っぽの部屋に視線を向けたまま、いら立ちを隠せずにいた。
母屋の奥、御簾越しに帝は、その様子をじっと観察していた。石作が酒の杯を持つ手さえ落ち着かないことを確認すると、わざとらしく小首を傾げ、冷ややかな声で問いかける。
「……石作、ひどく落ち着かぬ様子だが。待ちわびておる客人でもあるのか」
帝の問いかけに、石作は心臓が跳ね上がるのを感じた。指先が杯の縁を叩くのを無理やり抑え、彼は深々と頭を下げる。
「……めっそうもございませぬ」
声がわずかに上ずったのを悟られないよう、扇で口元を隠し、作り笑いを浮かべた。
その様子を、数席離れた場所から車持皇子がじっと見ていた。車持もまた帝の血を引く親戚の一人だが、石作のように浮世離れした男ではなく、朝廷の動きを常に観察し、自らの立場を盤石にするための好機を虎視眈々と狙う野心家である。
車持は、石作のこの露骨な焦燥が面白くてならないといった風に、口元に薄い笑みを浮かべた。
「やれやれ、石作殿も落ちたものだ。帝の御前で、客人の不在にそこまで取り乱すとはな」
車持は杯をゆっくりと傾けながら、周囲の貴族たちに聞こえるよう、わざとらしく溜息をついた。
几帳の奥に控えている舞姫たちの、くすくす、と忍び笑う声と囁きが、石作の耳に聞こえてくる。
「いかなる御方をお招きしたのやら」
「石作皇子さまをこれほど待たせるのですもの。さぞかし高貴なお方か、あるいは……とんでもない怖いもの知らずの方なのでしょうね」
石作は、杯を持つ手が微かに震えるのを抑えつつ、努めて優雅に扇で顔を半分隠した。瞳の奥には、車持への殺意にも似た激しい怒りが渦巻いている。
「……車持殿」
石作は、あえて低い、だが会場の貴族たちにも届くような静かな声で口を開いた。
「客人が遅れているのは、我が不徳の致すところ。されど、宴の余興もわきまえぬ者に、我が客人について軽々しく口にされる謂れはございませぬ」
石作は一度深く息を吸い込むと、吐き出すように続けた。
「まして、帝の御前でございます。根も葉もない噂を並べ、場の空気を乱すことこそ、真に分を弁えぬ所業とは思いませぬか」
石作の言葉に、会場の貴族たちの顔から笑みが消える。車持は杯を置くと、表情一つ変えず、ゆっくりと石作の方へ身を乗り出した。
「根も葉もない、か。……ならば石作殿。その客人とやらは、必ずやこの宴に参るのであろうな? 」
急に、庭口のあたりが騒がしくなり、貴族たちの視線が一斉にそちらへと集まる。見れば、石作の従者たちが、門で受け取った文を押し付け合って騒いでいる。
帝の随身が、その様子を察してか歩み寄る。随身は石作の従者から文を強引に奪い取ると、そのまま御簾の端まで進み出て、恭しく差し出した。
帝の影のように寄り添う蔵人頭が文を御簾の奥から受け取った。
彼はそのまま、帝の元へ運ぶ。
「姫君より、文が届きました由にございます」
石作が抗議の言葉を挟む隙もなく、帝の手に渡った。
「これほど待たせたのだ。先に拝見してやろう」
涼やかな笑みを浮かべ、迷いなく封を解く。その所作はあまりに自然で、かつ冷徹であった。
石作はただ呆然と、自身の破滅が露見する瞬間を眺めることしかできなかった。
「誘へど わが心今は いかさねば あづさゆみ引く 座にはゆかず」
(誘われても、私の心は今は動かない。あなたが弓を引くような、騒がしい宴の座には行くことはありません)




