初月 ―― 野蛮な娘と偉そうな男
おかしな娘だ。男は鼻で笑うと、馬の鞍に括り付けられた袋へ手を伸ばした。火打ち石と、麻の火口を慣れた手つきで取り出す。
「……身の程知らずにもほどがある。私がそなたのような者に火を起こしてやるとはな」
皮肉を吐き捨てる男の口は笑っている。カチ、カチと石を擦ると、火花が麻の束に飛び散った。やがてかすかな煙が上がり、男が息を吹きかけると、枯れ枝の隙間から赤々とした炎が立ち上がった。
「おー、すごい」
弥子は、思わず手を叩いた。
(焚火のことまで頭になかったから、ラッキーかも。昔の人は、こうやって火をつけていたのか)
「これで魚を焼くがよい」
背びれに塩をたっぷりつけた鮎を串にさし、火の回りに並べる。焼けるまでにはしばらく時間がかかりそうだ。
弥子は竹を握ったまま、火を見つめる男の横顔を観察する。整った顔立ちから、殺気は感じられない。どこか冷ややかに澄み渡った、人形のように端正な輪郭が浮き彫りになっていた。
パチバチ、と小さく火が鳴り、弾けた火の粉が男の長い睫毛をかすめて消えた。
(めっちゃイケメン……)
弥子の手から竹がするりと落ちる。慌てて拾おうとすると。
「……見惚れているのか?」
男は炎から目を逸らさぬまま、いたずらっぽく唇を動かした。
動揺した弥子は自分の顔が熱くなるのを火のせいにしつつ、ジュウと脂が落ちる鮎へと目を移す。
「さ、魚を見てたの。美味しそうに焼けてきたなぁって、そしたらつい手が……緩んじゃって」
男はくつくつと喉の奥で笑うと、火の傍らで串に刺さった鮎を一尾、ひょいと引き抜いた。
「焼けたようだ」
焼きたての鮎をそのまま弥子の目の前へ差し出した。弥子は、ごくりと唾を飲んで串を手に取ると、湯気の立つ鮎の背にかぶりついた。
「やばっ、なにこれ。めっちゃ美味しい」
指と口の周りについた塩気と脂も気にせず、夢中で食べている。そんな弥子の姿を、男は懐から扇子を取り出すと口元を隠すようにして眺めている。その瞳には、底なしの興味と、隠しきれない愉悦が浮かんでいた。
(……なんと、無防備で、野蛮な娘なんだ)
都の姫たちは、たとえ果物一つでも作法にのっとり、小さく上品に口にする。人前で大きな口を開け、魚にかぶりつくなど、想像の外側にある光景だった。思わず噴き出しそうになるのを必死に堪えた。
「食べないの ?」
弥子が聞くと男は「そなたが食べればよい」と口にしなかった。
「美味しいのに」
弥子が二匹目の魚にかぶりつく。
食べ終わる頃、男は小さな息を吐くと、竹筒の水で手巾を濡らし、手を伸ばした。
「ちょっ……なっ……」
身を引こうとする弥子の頭を、男の左手がしっかりと固定する。射抜くような瞳で見つめられ、弥子の心臓がドキッと跳ねた。
「なにすんの……よ、ぶっ、はっ」
男に顔を拭かれて、弥子は慌てた。
堪えきれず小さな漏れ笑いが男の唇からこぼれる。慌てて咳払いを一つすると、わざとらしいほどに冷ややかな声を装った。
「まるで幼子のようだ。少しは行儀というものを知らぬのか」
弥子は手巾を奪い取り、男を押しのけ、立ち上がった。
「もうっ。人の顔を勝手に拭かないでよね」
ぶつぶつ文句を言いながら手と顔を拭く弥子を見て、男は目を細める。
「そなた、どこの屋敷の者だ」
唐突に聞かれ、弥子は目を丸くした。
「じきに暗くなる。このあたりは日が落ちると獣が出る。女一人で帰らすわけにはいくまい。馬で送ってやる。どこの屋敷か申せ」
確かに、もうすぐ日は落ちる。街灯なんてないこの時代、屋敷に着く頃には真っ暗だろう。
(乗せてほしいけど……知らない人だし)
「でも……若君、私のような庶民を馬に乗せるのはまずいのでは? それに、屋敷の主人に見つかったら私も叱られます」
「構わぬ。さっさと火を消せ」
「偉そうに……」
「なにか申したか」
「バケツ――水汲むやつがないって言ったの」
「……」
男が竹筒を放り投げた。弥子はそれに水を汲み、火を消した。
馬の揺れに身を任せながら、弥子は前方の山道を見つめていた。日が暮れて、空は蒼く棚引いている。背後には硬い胸板が壁のように立ちはだかり、手綱を引くたびに、密着して体温が伝わってくる。
(なんなの、この展開は……。見ず知らずの男と喧嘩したかと思えば、魚焼いてもらったり、馬に乗せてもらったり)
理解できなくて弥子は、自分の額を竹でコツコツ軽く叩く。男は何も言わず、ただ淡々と馬を操っている。その隙のなさに腹を立てつつも、弥子は心の奥で刃を研ぐように決意を固めた。
(少しでも変な路地へ逸れたり、怪しい場所へ連れ込もうとしたりしたら、殴って逃げてやる……)
そう毒づいてみても、男の腕に囲まれた今の姿勢は、弥子の自由を奪っている。
夜風に混じる男の香と、背中に感じる確かな鼓動が、弥子を言いようのない焦燥感に浸らせていた。




