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初月 ―― かかってきなさい

 冷たい川の水が、肌から急速に熱を奪っていく。

 楽しかった時間が、男と目が合った瞬間に、胸の奥で何かが静かに音を立てて砕けた気がした。


 弥子は黙って川から上がり、脱ぎ捨ててあったわらじを履いた。

まくり上げていた袖を戻し、小袖の下に穿いていた括り袴の裾を下ろす。


 この男、桑畑で弓で矢を放った貴族だ。絶対、そうだ。

心臓が嫌な音を立てている。すぐにでもこの場を立ち去らなければならない。


 恨めしい気持ちで足元の鮎を見る。せっかく採ったのに。くぅーっ、食べたかった、鮎の塩焼き。もうちょっと後で現れてよ。弥子は足元の石の上に置いた二匹の鮎を恨めしげに見つめた。


 ぴちぴちと跳ねる鮎のそばには、おろおろしている蚕がいる。弥子が屈むと蚕がぴょんと袖口に飛び乗った。


(横暴な貴族め)

 

 弥子が背を向け、一歩を踏み出したその瞬間だった。


「待て」


 制するような男の声が、川面のせせらぎを切り裂いた。その口調から、男が権力の持ち主であることが痛いほど伝わってくる。


「……背中を向けて逃げるとは、不敬であるぞ」


 男が近づいてきて強い口調で言い放つ。


「顔を見せよ」


 弥子は大きく息を吐き出すと、ゆっくりと振り返った。


(こいつ、なんなの。ケンカ売ってんの?)


 怒りを滲ませた瞳で男を睨みつけた。


「今さっき『魚を採るな』って言ったのはそっちでしょう? だから帰ろうとしたのに、今度は『待て』? ……貴族だからって、何でも自分の思い通りになると思わないで」


 言ってすぐ後悔した。やってしまった。


(でも、我慢できなかったんだもん)


 男の指が太刀の柄にかかり、親指で鍔を押し上げるカチリという音が、静かな川辺に響く。

 弥子は、唇を噛み締め、自分を呪った。


(ほら、めっちゃ怒ってるじゃない。今にも刀を抜きそうだよ)


 弥子の足元には、釣りに使っていた竹が転がっている。


(こうなったら、一か八か)


 端を踏み、その反動で跳ね上がった竹を鮮やかに掴み取ると釣り糸をぶつっと引きちぎった。


「その刀を抜いたら後悔するわよ」


 男は自分の耳を疑った。

 都では、誰もが男の機嫌を伺い、その権勢に震えてひれ伏す。それなのに、川辺で魚を追っていたはずのこの娘は、竹竿一本で自分に対峙し、「後悔する」とまで言い放った。まさか、自分に歯向かう者がいるとは。


「身の程知らずにも程がある。そなた、この私を誰と心得ての口か」


「知らないわよ。こう見えて空手も剣道も有段者なんだから。ついでに器械体操もやってたし、足だって速いのよ。あんたみたいな色白の男なんて竹竿一本あれば十分よ。さあ、かかってきなさい」

 

 弥子の「かかってきなさい」という捨て台詞を聞いた瞬間、男の張り詰めていた表情が崩れた。


 ふ、と漏れた低い笑い声は、やがて腹の底からの愉快そうな笑いへと変わる。先ほどまでの殺気はどこへやら、肩を震わせて笑い続けた。


「……ははっ! ははははは! 面白い。実に面白い!」


 呆れたような、しかしそれ以上に強い興味を隠せない瞳が弥子を捉える。


(なんと……。このような女子(おなご)がいるとは思いもせなんだ)


「死を恐れず、ましてやこの身に竹竿を突きつけんとする度胸……! あまつさえ、その面構えまでがこれほどまでに美しいとは」


 傍らにあった枯れ枝を一本拾い上げ、弥子の足元へ投げつけた。


「枯れ木を集めてこい」


 男の行動に、弥子は竹竿を構えたまま呆然と立ち尽くした。


「……はあ?」

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