初月 ―― 横暴な貴族
川の方角へ向かって、獣道を縫うように斜面を下った。
鬱蒼とした木々を抜ければ、息を呑むほど美しい景色が待っていた。どこまでも続く清流、崖を伝って落ちていく水は滝つぼを青く輝かせていた。
「うわぁ、すご……」
川は驚くほど透き通り、深く鮮やかな山の緑をそのまま映し出している。水底の石も手に取るように見え、瀬では鮎が銀色の鱗を煌めかせていた。
さっそく釣り支度を始めた。拾ってきた竹を竿に仕立て、手持ちの麻糸を端に結ぶ。部屋の明かりに使われる火で炙り、軽く曲げた縫い針を、その先へ繋いだ。これで準備が出来た。
「絹を売って手に入れた塩も持ってきたし。あとは餌か。ミミズいるかな」
小石を捲ってミミズを探す。弥子は、ふいに小石の上で休む父を見た。
「ミミズの代わりに……」
「餌にはならんぞっ」
「冗談だって。そんなに怒らないでよ。ははは」
乾いた川原の空気に、弥子の笑い声が響く。こんなに笑ったのいつぶりだろう。
少し大きめの石を寄せ集め、竿を固定した。魚が食いついたところを素手で捕まえ、塩を塗って焼けば――完璧だ。
「かもーん。鮎」
澄んだ水底から魚の影が浮かび上がってきた。
「きた、きた、きた」
わくわくする気持ちを抑え、呼吸を殺して川辺に身を乗り出す。
水面の波紋が広がる。竿が揺れ、鮎が針を飲み込んだのを確認すると、水の中に足を入れた。
「うひゃっ。冷たーい。よしっ、絶対捕まえてやる」
素足で川底の石を踏みしめ、水の抵抗もなんのその。ざぶざぶと水音を立てて突き進む。糸を手繰り寄せ、必死に逃げ回る魚を追った。岩場の影に逃げ込んだ鮎に向かって両手を入れ、掴み取った。
「っしゃーっ」
川辺から少し離れた木立の陰で、その光景をじっと見つめる影があった。
男は、随身たちを「用がある。この先で待っておれ」と追い払い、一人で川辺にやってきた。一人になりたかった――それがこの場所へ足を向けた理由だった。先客がいる。しかし引き返すのは癪に障る。
「そなたに水を飲ませてやらねばならぬ」
あからさまな不機嫌さを隠そうともせず、手綱を引き、足場の悪い川辺へと降り立った。追い払えばよい。自分の身なりを見れば、誰もが貴族であると一目で悟り、畏れをなして逃げ出していくはずだ。
「この川は誰のものだと思っている。無許可で魚を獲るなど、言語道断。即刻やめよ」
横柄な調子で声を掛けると、魚を抱えた少年が振り返った。
整った顔立ちをした美しい少年だと思った。しかし、その瞳を凝らして見て、男は唾を飲み込んだ。無造作にめくりあげられた着物の裾から覗く手足は驚くほど細く、透けるような白い肌をしている。日々の過酷な労働に晒された庶民のものとは、到底思えない。
(……いや、違う。少年ではない)
濡れた髪から雫が落ちる。それすらも美しい。自分を見据えるその眼差しに、男は一瞬、眩暈を覚えた。娘だ。蒔絵に登場する姫のような面持ちの女子が、なぜこのような山中で、薄汚く汚れた男物の着物を着て、水に濡れ、獣のように魚を追っているのか。
目があった瞬間、川のせせらぎも、背後の馬のいななきも、辺りの景色も何もかも消えた。まるで世界が反転し、この世に自分と、この得体の知れない娘の二人しか存在しないかのような、奇妙な静寂に包まれる。男は吸い込まれるように、その瞳から目を逸らすことができなくなった。




