初月 ―― 桑の木を見に行く
山へ続く道、辺り一面の桑畑が、日差しを浴びて青々とした新緑を輝かせていた。
男装した弥子は、肩に蚕を乗せて少し早足で歩きながら、屋敷での出来事をぼやく。
「……また今日も、客が訪ねてきて、私を一目拝ませてくれって。仏像じゃないっつーの。そんなに拝みたいなら、お寺にでも行けばいいのに」
肩の上の蚕は、弥子の話を半分だけ聞いているような曖昧な反応で、小さく体を揺らしてうとうとしている。
その時、どこからか地響きのような音が聞こえてきた。騒々しい馬の足音に驚き、目を覚ました父が、弥子の耳元で隠れよう、と言った。
弥子はとっさに体を低くし、桑畑を突っ切った。あぜ道から伸びきった草の茂みへ逃げ込んだ。身を屈め、息を殺して様子を伺う。
茂みのすぐ脇の細道を、通り過ぎようとしていた男が、手綱を引いた。背負っていた弓を手にすると、狙いを定め、弥子たちが隠れる草陰に向けて矢を放つ。
「ひっ……!」
弥子は思わず声を上げそうになり、慌てて口を塞いだ。すぐ傍に矢が飛んできたのだ。随身の一人が馬を降り、茂みの方へ小走りで駆け寄ってくる。弥子は這うようにして茂みのさらに奥へと逃げ込んだ。矢の刺さった山鳥を随身が片手で持ち上げてみせる。
「主上、見事なお腕前、まこと感服いたします」
その凄惨な光景に、弥子は目をぎゅっと閉じた。
もし矢の角度がわずかでも違っていたら――。
想像するだけで、弥子の全身から血の気が引き、動揺と恐怖に震え上がる。
先頭を行く男が手綱を引き、弥子が隠れている方向をじっと見ている。
(やばい、見つかった?)
弥子に緊張が走り、心臓が早鐘のように打つ。
(神様、仏様、お願い……なむ……なむなむなむなむ……)
幽霊でも見たかのように、念仏を唱えて祈っていた。
男は視線を外し、手綱を緩め、馬の腹に足で合図を送ると風を切って走り去っていった。
遠ざかる蹄の音が完全に聞こえなくなってから、ようやく、這いつくばって出てきた。
「怖かったーっ。まだ足が震えてるよ」
懐に隠れていた蚕が、のそのそと這い出てくる。
「見つかったら何されるかわからんからな。早いとこ、ここを離れよう」
山の中に広がる竹藪、その奥に、一本の桑の木が静かに立っている。
「あれだ」
弥子は迷わず駆け出した。竹の葉がさらさらと風に擦れる音だけが響く中、弥子は桑の幹に手のひらを押し当てる。
家の裏山で千年以上生きている、あの大木に比べれば、この木はあまりに若く、細い。手の平から感じ取れるのは、悲しくて、冷たい現実だけ。
本当に、千年も前の世界に来てしまったんだ……。
「どう見ても普通の木だ……」
背後で、父が力なくそう呟いた。ここがもう元の世界ではないという諦めが滲んでいる。
「……まだわかんないよ。もう少し調べてみる」
弥子は父の言葉を打ち消すように、幹に足をかけた。木の幹を掴むと枝から枝へ。まるで段違い平行棒で演技をするかのように、弥子は軽やかに、するすると木を登っていく。
樹齢百年ほどの桑の木は、枝が四方に力強く張り出しており、それが弥子にとっては絶好の足場となっていた。目を凝らし、幹を徹底的に調べ尽くす。
「なんだ鳥の巣か……」
枝のまたがりに足をかけ、さらに高いところを目指す。
(……なんの変哲もない、ただ大きいだけの木にしか見えない)
高い枝まで登り詰めると、枝葉に遮られていた視界が一気に開けた。
「川だ。お父さん、川が見える」
山の斜面を縫うようにして、銀色の帯のような川が流れている。
「お腹も空いたし、魚釣りに行こう」
弥子は身軽に枝から枝へと移りながら、着地した。




