六話
結局その日レインは眠ることができなかった。オタカに頼んで客も取らず、部屋をうろうろ歩き回ったり、立ったり座ったりしてじっとしているということがなかった。
頭に浮かぶのはオーランのことばかり。自分をこの無味乾燥な世界から助けてくれる存在。嘘のような人。
すべてを諦めていたのにこの生活が変わる兆しが見えた途端に眠れもしないほど悩むなんて自分を浅ましい存在だと思ったがその考えすらオーランと共に行くかここに残るか、その問題の前には些事であった。
東の空がほんのりと明るくなる頃、レインはまだ眠れていなかった。明かりが部屋の中を照らし始めるとレインは部屋の隅へ屈み込み、羽目板をそっと外して中から巾着袋を取り出す。
それはレインがこの五年、妖精亭の勤めで溜め込んだ金であった。五年の重みを手のひらに感じる。
「これだけあれば二人でも十分やっていける」
巾着袋の中を確かめてレインは呟いた。
万が一仕官出来なくてもこれだけの金があれがなにか商売を始めることだってできるだろう。結局金がなくてはどうにもならないってことをレインはよく身に沁みて分かっていた。
このお金があれば例えば二人で居酒屋をやったっていい、オーランが料理人で私が給仕をやればきっと繁盛するわと巾着袋を抱きしめて食事を出したり客にお酌をしたりする自分を想像する。
このお金があれば例えば二人で行商人になったっていい、二人で各地を回っていろんなものを見たり食べたりするのだきっと楽しいわと巾着袋を抱きしめて二人で名所を観光したり特産品を食べたりするのを想像する。
私はまだなににだってなれるんじゃないか? そんな勇気が湧いてくる。オーランと二人ならなんだって出来るし、なんだってやれる。
よし! 行こう! オーランと一緒に旅に出よう。この不運続きの私の人生にようやく運が巡ってきたのだ。オーランと一緒にその運を掴むのだ。
そう決心すると慌ただしく荷物をまとめて旅に出る準備に取り掛かる。気が付くと日はずいぶん登っているがまだまだ正午には余裕がある。
オタカやイザベラの事を想うと少し胸が痛むが無理やり意識の外へと追いやる。今はオーラン以外のことを考えるべきではないと心に決める。
いざ部屋を出ようとすると廊下を大慌てで走る音が聞こえる。しかも音が近づいてくる。目的はこの部屋だと察すると荷物を部屋の隅へ隠す。
隠すと同時に部屋にイザベラが飛び込んできた。目からぽろぽろと涙を零している。
「姉さん! 姉さん! どうしましょう! 」
イザベラはレインの胸に縋り付くと子供のようにわんわん泣き始める。レインはイザベラを抱きしめながらも内心苛々とする思いでどうしたのよ、とイザベラに問いかけた。
それが……とイザベラが話し始めた内容はあの行商人の話であった。どのような連絡の取り方をしているのか不明だが朝早くイザベラは行商人に呼び出されて出掛けていった。行くと行商人は真っ青な顔で俺と一緒に逃げてくれと言う。
訳を聞くと大事な荷を子鬼に奪われた。奪われただけならまだ良かったが、どうもその荷の持ち主は所謂非合法な連中らしく、荷もご禁制の品であり彼らに弁償をしないとどんなことになるか分からないという。
「それを聞いて思わずお金なら任してって言ったの。あたし結構貯めてるから大丈夫だろうって、この人のために使うんなら惜しくないって思ったの……だけど」
「全然足りなかったのね」
レインが言うと涙と洟水でぐちゃぐちゃになった顔を縦に振った。非合法な連中が捌いてるご禁制の品を丸々失ったのだ。その補填はまだ勤めて間もない娼婦のへそくりでどうこうなる額じゃないだろうことは想像がつく。
「姉さん……お願いがあるの」
その声音にレインは身構える。次の言葉はお金を貸して、だ。だがレインとてあの金を貸すわけにはいかない、あの金はレインとオーランが幸せになるための金だ。誰を地獄を蹴り落とそうと渡せないものであった。
「オタカさんに一緒に頼んでください! なんとかお給金を前借りして頭金、いえ謝罪金として渡せばまさか殺されることはないと思うの! 」
ひたむきな真っ直ぐな目だった。本当にその行商人を愛しているんだとレインは思った。
だがオタカに前借りするのは無理だ。オタカはこの手のことを親の仇のように嫌っている。他のことではいくらでも相談に乗ってくれるだろうが男関係だけは駄目だ。望みがない。
「無理よ、あなたもわかってるでしょ」
あるいはオタカを騙して金を出させるか? やはり無理だ。そんな大金を借りる言い訳なんて思いつかない。暴力でなど論外であるし不可能だ。オタカから金を引き出す方法はない。
「あの人が殺されちゃうわ! 」
また子供のようにイザベラは泣く。どうしようもないと思った。諦めなさい、と口に出そうとしてどうしてもできなかった。
もしオーランが同じ状況なら? 私はきっと是が非でも助けようとしてするだろう。
姉さん姉さんと私を慕ってくれたイザベラ、鍋と竹箒で武装して大真面目に私を心配してくれたイザベラ、文字や計算を一生懸命勉強していたイザベラ。
イザベラの泣き声を後ろに聞きながらレインは部屋の隅へと向かう。胸がぎゅっと締まり吐き気がする。なにを考えてるんだやめろ幸せを捨てるつもりかと頭の中でレインは叫ぶ。だけども体は勝手に動いている。巾着袋を手にして目を瞑る。手が震える。
なに大丈夫よ、こんなこと慣れっ子よ。 全然大丈夫。
「オタカさんから借りるのは無理よ、でも」
「でも……?」
「これをあげるわ。これでその行商人の男をやり直させなさい、きっぱり悪い奴らと手を切って二人で地道にやっていくの」
ずっしりと重い巾着袋を手渡す。五年分の重みだ。レイン姉さんはけちんぼだなんて言われるくらいには貯め込んである。
しばらく啞然とした表情をイザベラはしていたがすぐに首を横に勢いよく振り始める。
「ダメよそんな! ごめんなさい! あたしそんなつもりできたんじゃないの、許して! 」
巾着袋を返すようにイザベラに押し付けるがその手をレインはしっかりと握りしめイザベラを睨むように見つめる。
「いいの? これがあればきっとあなたの男は助かるわ。二人でやってく道もできる。でもどうしてもあなたが返すってんなら仕方ない、これは返してもらうよ」
イザベラは息ができないようだった。浅く激しい呼吸を繰り返し、目が血走る。
「幸せになるには誰かを吹っ飛ばしてでも行かなきゃならないときがあるわ。真っ直ぐ脇目も振らず走って走って……走り抜けなきゃならないときがあるわ。あなたは今がその時よ。これがあなたの人生を決める選択になるわ」
レインは昨日の晩、自分に投げかけた言葉をイザベラに告げる。
「おっあぁ……うっうぅ……」
声にならない声をあげてイザベラは膝をつく、巾着袋をありがたいもののように頭の掲げる。
「あ、ありがとうございます。姉さん……」
「さぁ早く行くの、そのお金でその人を助けて一緒になるのよ。もう娼婦の世界になんて戻ってきちゃダメよ」
「はい……姉さん! 姉さん! なにも言えないわ、なにを言ってもそらぞらしくなっちゃう。でも本当にありがとう姉さん」
いつまでも頭を下げるイザベラの背中をレインは押して部屋から出す。
「行きなさい」
イザベラはレインに抱きつきながら実は……と言った。
「実はあたしはイザベラって名前じゃないの、本当の名前はエリー、田舎っぽくて嫌な名前、でも姉さんには知っていてほしかった」
「そんなことないわ……エリーって素敵よ、いい名前だわ。エリー、うんと幸せになってね」
イザベラは……いや、エリーは走り出した。階段を飛ぶように降りて、店を出ていく。
真っ直ぐ脇目も振らず駆けていく。その行き先でどうなるのか、もはやイザベラに知ることはできないだろう。ただ幸せになってと祈ることしかできない。
日は高く登り、正午を告げる鐘が鳴った。街の北門ではオーランが待っているだろう。
私も走り出そうかしらとレインも思うが「足手まといはまっぴらよ」と笑おうとして泣いた。
オーランのごろんと横になり、背を向けた姿を思い出す。その背中が少しずつ遠くに行くのを感じた。




