四話
「あの人また来たわね」とイザベラが昨日の話をしている。あの人とはあの日酔っぱらって大騒ぎした挙げ句レインに手出しせずに帰ったあの男のことである。
「そうね。あっ、ここ、間違っているわ」と言いながらレインはあの男のことを考える。
あの男が最初に来てからもう四ヶ月ほどになる。最初に来て、灯も照らさず夜の闇の中に消えたとき、この男とは二度と会うこともないだろうとレインは思っていたがその二三日後にしれっとその男は店に顔を出したのでレインは驚いた。
部屋に入り「先日は迷惑かけた」と言って男は改めて頭を下げた。ひどく酔ってはないようだがその日も酒の匂いがした。頭を上げると男は奥に歩いていき寝具にごろんと横になって「酒はないのか」と先日聞いたことをまた聞いた。先日は自分が迷惑客だったので出さなかったと思っているようだった。
「いえ、本当にうちには置いてないんです」とレインが答えると「残念だ」とまた背を向けた。
男に寄り添うように横になり男の逞しい背中を撫でる。
「今日もなにもしなくてよろしいの? 」とレインがしつこいくらい背中を撫でながら言い「いいんだ」と男はまるで孤児がこれからの生活を思うような、かぼそく力のない声で言った。
別段なにも話さず、なにもしないくせに時間が来ると名残惜しそうにして「では、また来る」と帰っていった。
男はそれから週に一度火の日に必ず来た。来るようになって二ヶ月目にはレインは酒を部屋に隠しておいて男が来ると酒を内緒で飲ませた。来る度来る度「酒はないのか? 」と聞いてくるのが嫌になっていたこともあるがなによりレインはこの自分になにもしない男を喜ばしたいと思ったのだ。
初めて酒を出したとき男は狼狽して「すまん」と謝った。
レインがなぜ謝るのかと聞けば男は恥ずかしそうに自分は不器用な男だから女とうまく話すこともできない、自分にとっては酒はあるか? というのが精一杯の会話だったのだと言った。レインはお腹が痛くなるほど笑った。
その笑いを聞いている男は茹で上がったタコのようになっており、今ならいけそうだと思いきってレインは男に口付けした。口を離して見つめ合うとやはり男の美しい青い瞳に釘付けになる。
髪は伸びっぱなし、髭は顔を覆い、体は立派で逞しいくせに瞳だけは妙に子供っぽい。思いっきり意地悪して泣かしてやりたいような、そして思いっきり甘やかしてやりたいようなそんな気持ちになる。
なんだかレインはとっても恥ずかしくなってきて顔が火照って首に手をやると心地良いくらいの熱がある。
「あら、いやだ」と口に出すとさらに恥ずかしくなってきて男の顔をまともに見れやしない、しょうがないから酒の入ったボトルをもって「とりあえずさぁさぁ」なんて男に酌をしてやる。
男もすっかり落ち着きをなくし、目をぱちくりさせてただひたすらに杯を重ねた。
なにをやってんだい妖精亭で五年も勤めてまるで生娘みたいにドタバタしちゃって情けないと笑う自分が居るが、だって仕方ないんじゃない恥ずかしいものは恥ずかしいんですからとぷりぷりしている自分もいる。
なんだか自分が分裂したような、自分で自分が分からないようなそんな感覚に陥る。
ふと気が付くと男はまたごろんと寝具に横になっていた。そそくさとレインも近付き横になる。
「なにもしてくださらないの? 」問う言葉が変わっていることにレイン自身は気付かない。
「あぁ。いいんだ」あるいは男も気付いていないようだった。
にべもなく言われたレインはカッとなって思いっきり背中を抓ってやったが男はうんともすんとも言わなかったのでその広い背中に抱きついて時間が来るまで寝た。
うんうん唸って紙とペンを握るイザベラを見ていると妹が居ればこんな感じなのかなと思う。
男のことからイザベラのことへと思考が飛ぶ、あの日以来イザベラはレインの前で貴族振るのをやめた。そして猫がじゃれつくように姉さん姉さんと甘えてくるようになった。
他の者と喋っているときは背筋をぴんと伸ばし、視線を真っ直ぐにし、歩き姿もまるで頭の先から鉄串が入っているようにして歩くのにレインと部屋にふたりきりになると体を寄せるようにしてじゃれてくる。
あんまりベタベタしてくるものだからこの娘もしかして……と思ったがその心配も先日無くなった。
「アタシ好きな人ができたの」
指でテーブルの上にのの字を書くようにしてイザベラは言った。
相手は行商人の男でこの街を中心に色んな所を回っているらしい。優しくて真面目でいつもイザベラを労ってくれて行商で回ってた街のお土産なんかもよくイザベラに持って来てくれるらしい
「それでね、姉さん。その人が結婚しようって言ってくれるのよ。もちろん今は無理だけど自分が店を持ったらお前を貰いたいって言うの! 」
嬉しさで興奮しているイザベラとは対象的にレインの胸中は穏やかではない。そんな話、ごまんと聞いて見てきたからだ。レイン自身そんな話をされたこともある、もちろん相手にすることはなかった。
そんな言葉を真に受けた女たちの末路は悲惨だ。男のその場限りの甘言に舞い上がりのぼせ上がって、男を追ってみれば家庭があったなんて可愛いもんで下手すると金をむしられ売られてどこに行ったか分からないなんて噂も聞いたことある。
「いいかい、男になんて惚れるんじゃないよ。あんたらは男に惚れられて店に呼ぶのが仕事なんだ。それに男どもはあんたらを犬畜生とも思ってやしないよ、本当さ。だからどんな優しく扱われてもそれは犬や猫を撫でるようなもんで真から人として愛情をもってくれる男なんて居やしないんだからね、忘れるんじゃないよ」
そんなオタカの言葉が思い出される。あれは実はオタカ自身に投げかけた言葉だったんじゃないかとレインは思っている。オタカ自身過去にそんな経験をしたことがあるのかもしれない。
「それで実は姉さんに字や計算を教えてもらいたいんだ。姉さん、店の帳面なんかたまに付けてるからできるんでしょ? アタシあの人と一緒になったらお仕事もうんと手伝ってあげたいの」
そう言うイザベラになにか忠告の一つでもしようと思ったがこうなってしまった女は決して他人の話なんて聞きはしない、むしろやめろやめろと言われれば俄然火がついてしまうことは分かりきっていた。
レインには過去に一人だけイザベラのように交流があった女が居た。その女も男に誘われ店を脱けた。その前日にレインは女に忠告したが「あの人に限ってそんなことあるわけないよ! あんた嫉妬してんだろ! 」と口汚く罵られたこともあった。女が店を脱けて数日後無理心中の水死体が二体川から上がった。女の方の死体は妖精亭を逃げた女によく似ていたらしいがレインは確かめようとはしなかった。
そんなこともあったのでレインはなにも言わずに文字と計算を教えてやった。その某とかいう行商人とのことがダメになっても文字と計算ができればこの先きっとイザベラの力になると思ったからだった。
それからしばらくした火の日、今日はごろんがやってくる日だ。とレインはそわそわしていた。
ごろんとはあの青い瞳だけがやたらと子供っぽいあの男のことである。いつもごろんと横になり背を向けるのでごろんとレインは心の中で名付けていた。
彼とレインが付き合いももう半年になろうとするのに未だにレインはごろんの本当の名前も知らないしなにをしている人なのかも分からない。こんな店に来てるのに肌も合わせたことがない、でもそれで良かった。むしろ抱かれてしまえば自分とごろんが普通の娼婦と客の関係になるようなそんな気がした。
もちろんごろんから求められればいつでも喜んで抱かれるつもりではある……と考えて私、イザベラのこと言えないわと思った。
廊下から足音が聞こえてきて扉が開いた。
ごろんが来た!
振り返り、「こんばんは」と言ったところで顔が固まった。その男はごろんであった。半年の間毎週のように会っていたのだ間違えようもなかった。
しかし、ごろんではなかった。髪をばっさりと切り、髭を綺麗に剃り、小綺麗なビシッとした服を着ている。
その男のことはレインは知っていた。言葉を交わしたことはなかったが遠目でよく父と歩いている姿を見ていた。
あの日、父を見送ったあの日もその男は父の供をして一緒に旅立っていった。
「オーラン様……」
オーラン・グリーン、父の騎士であった男であった。




