115 嫌な予感
領事館に入ったカール・オーウェンミュラーは、迷う事無く領事室へと向かい、領事に新年の挨拶を兼ねて改めて就任の挨拶を済ませた。
領事のオラヴェル・ボレウスは人当たりの良い穏やかな紳士なのだが、やはり老人と言う理由からか、そもそも興味が無かったからなのか、年末に挨拶に赴いたカールの事を完全に忘れていた。だが、それもご愛機だと腹も立てずに、カールは次の挨拶先を訪れる。
年末に出張で不在まった副領事のミヒャル・ファルセン伯爵に挨拶を終わらせれば、いよいよカールの儀礼的な活動も終わり、本格的な業務に没頭出来るのだ。
足音すら聞こえないほどにフカフカな、豪華な絨毯の廊下を進み、副領事の執務室の前へ。ノックをすると中から「入りたまえ」と落ち着いた声が彼を招き、カールは扉を開けて中へ入る。
「バルトサーリ経済同友会の意向でフォンタニエに派遣されているカール・オーウェンミュラーと申します。このたびプロニスラフ領事館付きの経済調査員に任命されました」
「よろしく、副領事のファルセンだ」
ファルセンはカールと握手を交わした後に秘書を呼び、コーヒーを頼みつつカールを応接ソファでくつろげと指示する。
「ボレウス領事に挨拶は済ませたのかね?」
「先ほど挨拶は済ませました、穏やかそうな方でした。業務の詳細は副領事と詰めて欲しいとの事です」
「そうだね、ボレウス氏にしてみればこれが最後の任地だからね。勇退後は悠々自適が待っているから、穏便にもなるさ」
いやいや、雰囲気や性格的な事で穏やかだと評しただけなのに、核心に触れるような余計な情報ありがとうございますと、カールは内心苦笑しながら聞き流す。
だったこれだけの発言を聞いただけでも、皮肉屋や上昇志向などと……根は悪くはないのだろうが、口の悪さで損して来た人物だなと、副領事の性格が垣間見えてしまう事で、自分もそう悟られないよう襟をただしたのだ。
やがてコーヒーが運ばれて来て、社交辞令的な雑談も話尽くした頃、頃合いを見計らった副領事が探りを入れて来る。形式にこだわるならば、この時期に人事異動などあり得ない── それが副領事の根底にある。カールとその背後にあるもののが、何を意図してこの平和なプロニスラフに一人の青年を送り込んで来たのかが気になるのだ。
政府から正式に派遣された書記官でなく、民間徴用で派遣されたこの青年は、専門分野は流通経済学で診断士として財界の各企業にアドバイスを続けて来たと言う。
──何やら金の匂いがする──
副領事はカールを通じて、何やら大きなビジネスチャンスがあるのではと考えていたのだ
「この時期に君のような民間徴用が来るのは異例中の異例だよ、そもそもが全ての人事異動は秋にあるのだがね。大使館にいたんだろ?」
「ええ、大使館で経済動向調査担当官を拝命してましたが、今回の移動は政府側の指示ではないのです」
「政府側の指示ではない?と言う事は君の母体の経済同友会の指示なのかい?」
「ええ、まあ。私が大使と合わなかったと言うのが一番の理由なんですが、こちらの方で調査対象となる事がらが発生したもので、合わせ技一本と言うところでしょうか」
「大使に嫌われていたのかい?君が?こりゃ傑作だ。話にしか聞かないが、あの欲毒しい大使が嫌うと言う事は、君はよほど清潔な人物であると言う事だよ」
副領事は豪快に笑い飛ばし、冷めかけたコーヒーを一気に飲み干して息を整える。
「オーウェンミュラー君、君の人物像はともかくとして、このプロニスラフで君が何を成そうとしているかについて興味がある。経済診断士としての通常業務であるならば、我々官民に対して報告の義務もあろうが、同友会側の業務指示ならば、私たちもあまり詮索は出来ない」
「副領事のおっしゃる通りです。政府間外交があっての領事活動です、我々民間人が秘匿業務で領事活動に悪影響を与えるのは愚の骨頂。また、そうなる事が分かっているのに領事館側から協力を得られるはずもありません」
カールは真剣な顔付きで、副領事に向かって「ここだけの話ですよ」と、身を乗り出す。古来より対人関係のコミュニケーション手法の一つとして、ここだけの話と言う切り出しは多用されて来たが、もちろんここだけで終わるはずもない。
「秘密」と言うものは、口から一度出てしまえば秘密ではない。秘密を伝えられた側の者がその情報を秘匿するかどうかは酷く疑わしく、あっという間に情報を拡散する恐れもある。だから自分の中だけで管理出来ずに他人に喋ってしまう情報は「秘密」ではないのだ。
だが人はその秘密の情報が楽しければ楽しいほど、他人に話したくてしょうがなくなるし、他人の側も「秘密だよ、秘密にしてね」と言われると高揚してしょうがない。
──カールはそれを理解した上で、副領事が喜んで喰いつき、そして満足してくれるはずの情報を提供したのだ
「昨年の半ばより、フォンタニエの首都ファボロフスクで全く新しい麻薬が爆発的に出回りました。コカインと言う聞き慣れない種類の麻薬ですが、その質の良さから、従来出回っていた様々な麻薬が駆逐されてしまったほどです」
「コカイン……?すまない、私は知らないよ。元々社会の暗部には疎くてね」
「そうでした、それなら分かりやすく説明します。首都でコカインが広まってから、マフィアの勢力範囲図が劇的に変わりまして、コカインを扱うマフィアは首都で勝利し、扱わないマフィアは地方に退かざるを得なくなったのです」
「まあ、持つ者持たざる者の差、盛者必衰とも言えるだろうが……読めたぞ、それでこの街か」
「はい、鉄道労働者の天国プロニスラフは、マフィアにとっても良い稼ぎになる天国です。北のアークヴェストから麻薬は流入して来ますが、国境侵犯のリスクもある以上、マフィアには良い畑になるはずです」
「なるほどねえ、君はアンダーグラウンド経済の専門家か。それなら大きな声で移動の理由を言えない訳だ。フォンタニエ側もそれを聞いたら良い顔をしないよ」
苦笑する副領事は、カールに協力する事を約束するのだが、ここで悪魔の閃きが頭上で燦然と輝いた。
──フォンタニエの闇に近付こうとするカールを、フォンタニエ側は快くは思わないはず。フォンタニエの官憲が彼の動きに気付いて牽制して来ても、外交特権で逃げ切る事は出来る。逃げ切る事は出来るが、いつか必ずフォンタニエ政府筋の公式な依頼として、カールを担当から外せと言う圧力は必ずかかる。
つまりカールがプロニスラフ領事館にいられる期間は、本人が望むと望まないと短いはず。フォンタニエが真剣に嫌がれば、国外退去や本国送還の可能性もあるのだ。
(これに乗じて、本国に還す人物がいる) 副領事ハルセンは、天啓を得たかのようにカールに提案を始めたのだ
『この領事館には駐在武官が一人常駐している。君の護衛と言う形で使って貰えないだろうか?いや、使ってくれ。彼女には是非とも武勲とも言うべきキャリアアップが必要なんだ』
副領事が“彼女”と言った時点で、もはや嫌な予感しかしないのだが、いくら副領事の思い付きであったとしても政府側からの指示である事に間違いはなく、ありがたがる様な演技で「分かりました」と護衛付きを受け入れた自分を呪うカールであった。




