113 “カールさん”
「カールさんおはよう、ちょうど朝食の準備が出来たところよ」
およそ一般家庭の平均的広さのダイニングルームより、ひと回りもふた回りも広いダイニングに、金髪の青年が入って来た際に、エプソン姿の老婦人がかけた言葉だ。
「フラゴナールさんおはようございます。今朝も冷え込みましたね」
カールと呼ばれた青年は、スラックスにワイシャツを着て、ネクタイをかっちりと結んでベストを羽織っている。これから銀行に出勤でもしそうないでたちだ。
「寒かったわねえ、私もベッドから出るのに随分と勇気が必要だったのよ」
大きなテーブルを前にして、カールは場所が決められているかのような動きで椅子に座る。
老婦人は上品に笑いながらカールに淹れたばかりのコーヒーを差し出し、前もって準備していた朝食の配膳を始めた。
「例年に比べて雪も多いし気温も低いし、私のようなお婆ちゃんには厳しい冬よ」
「いやあ、私もびっくりしましたよ。フォンタニエは温暖な気候だと聞かされていたのですが、こんなに雪が積もる光景を見たなんて、私の人生で初めてです」
「フォンタニエと言っても広いからねえ。どちらかと言えば、このプロニスラフは寒い場所よね」
小さくサイコロ状にカットしたヤギのチーズを練り込んで焼いたコッペパン。スライスしたマスの燻製にオリーブオイルをかけ、塩胡椒とハーブで味付けした一皿とスクランブルエッグ。この時期は生鮮野菜がなかなか手に入らないとボヤきながらも、野菜をたっぷり入れたスープ。
これらはこの地方のごく一般的な朝食のメニューなのだが、老婦人はこれらをカールに用意しながらも朝の会話を楽しんでいる。
ところが、「うん?」と老婦人が首を傾げた。ここまで重ねて来た会話をぴたりと止めて、何気なく聞き逃してしまっていた重大な事実に改めて気付いたのだ。
「カールさん、カールさん。あなた今、こんなに雪を見たのは初めてだっておっしゃったの?」
「え、はい、言いましたよ」
「あらまあ!だってカールさんはアムセルンドから来たんでしょ?あちらの方が雪は凄いんじゃないかしら?」
フォークとナイフを使い、スクランブルエッグを器用に口へ運びながら、カールは微笑みながら答える。
──アムセルンドは冷え過ぎてあまり雪が降らない。空気がキラキラ輝くほどに寒いのだが、そのまま寒気は東に抜けて、フォンタニエの湿った暖気とぶつかって雪雲になる事から、実はフォンタニエの山沿いの方が雪が積もるのだと。ゆっくりと分かりやすく説明した。
「冷え過ぎると言うのも、何だかピンと来ないものね」
「干した洗濯物があっという間に凍ったり、牛や馬が口からもうもうと白い息を吐いてる姿を想像してください。それがアムセルンドです」
「あらあ。そんなに寒いなら、お買い物なんて出ていられないわね」
終始和やかに会話が進む中、カールは朝食を摂り終える。
老婦人が食後の一杯でコーヒーのおかわりを注いでやる間に、会話の中身は風土の気候から、カールにとって身近な話題に変わって来る。
「三年の任期と言っても、一年に一回領事館を移動するのでしょ?落ち着かなくて大変ね」
「そうですねえ、首都のファボロフスクは落ち着かなかったですね。一年目と言う事で緊張もしてましたが、とにかく街がせわしなくて。全く落ち着かなかったですね」
「ファボロフスクは人が多いからねえ」
「ですがここは良いです、プロニスラフはまるで私の故郷のように落ち着きます。空気も美味いし景色も良い。残り二年は変わらずプロニスラフで過ごしたいものですよ」
コーヒーを飲み干したカールは立ち上がり、重ねてご馳走様でしたと礼を言う。
「この下宿なら、いつまでもいて良いのよ。主人が亡くなってからは話し相手に困っていたから」
「そう願いたいものです。私のような経済診断士は民間雇用ですからね、役所の人は血も涙も無く使いたい放題ですよ」
クスクスと苦笑いする二人
そろそろ出勤の準備をすると言って、下宿宿を切り盛りする老婦人のフラゴナールに挨拶したカールは、ダイニングルームを出て大きな廊下に出る。一度玄関ホールに向かい、そこにある階段を登って自室に向かった。
下宿宿と言っても、ベッドと机しかない安い部屋と不味いメシの合わせ技のような安い下宿宿ではない。
クレール・フラナゴール夫人が住むこの豪華な屋敷は、生前に陸軍大佐の階級まで上った夫の所有で、夫亡きあとに下宿宿として婦人が改装したのである。
そしてたまたま下宿先を探していたアムセルンド公国のプロニスラフ領事館に赴任が決まった、民間徴用職員のカール・オーウェンミュラーが見つけて契約したのである。
純粋な領事館職員、つまり政府が現地へ派遣する正規職員は、ちゃんと職員用の寮が用意されるのだが、このカールのように政府から民間に委託された経済動向調査官などは、自分で宿を探さなくてはならないのである。
カール・オーウェンミュラー
本来ならば、親族でない限り姓名で呼ばれるはずが、この自由貿易王国フォンタニエでは事あるごとに「カールさん」と呼ばれる青年。
フォンタニエの言語発音では、オーウェンミュラーの発音が「ホッフェッンミュラ」となったり「オウフェンミョラ!」とならざるを得ず、発音に苦しんだフォンタニエ人から、結局のところカールさんと名前で呼ばれてしまう運命にある青年。
領事館勤務の民間人、経済動向調査で雇われた大学准教授と言う肩書きがあるのだが、彼の部屋に置かれた鍵付きのアタッシュケースには何故か……自動拳銃が隠されていた。




