ロシア防衛戦 航空戦の主役達 後編
変態がロシアにいました
ロシア防衛戦に於いて、ロシア・日本連合軍が戦力差五分の一にもかかわらず善戦し、戦線が崩壊することなくじりじりとしか後退しなかったことは驚異である。
原因はいろいろ有るが、航空機に絞ると、この機種の働きが大きい。
百式司令部偵察機
常に劣勢での戦いを強いられる陸戦に在って、精度の高い情報を早く入手出来れば、それだけで勝利にはならずとも損害を減らし、優位に戦うことが出来る。
そう考えた陸軍によって、九七式司令部偵察機が作られた。その成功を受けさらなる高性能を目指し開発されたのが、百式司令部偵察機だった。
要求性能は高く、
最高速度は就役時に予想される戦闘機の最大速度と同等以上を発揮
高度一万メートルで偵察飛行可能なこと
航続距離 一千km進出出来ること
この三点は重点的に要求された物で、残りの項目は緩かった。
上記性能を発揮出来れば、開発元の自由とされた。
航空機メーカー各社に内示をしたものの、手を上げたのは三菱だけだった。
設計陣はとにかく空力と軽量化にこだわり、美しいシルエットの機体が設計された。
航空性能を上げるため高アスペクトレシオの主翼を採用し、当時最先端の翼型である層流翼を参考に、最善と思える翼型を作り出した。
正和十五年春に出来上がった試作機は、瑞星エンジン一千六十馬力の双発で、高度六千で全速五百八十km/hを出した。
瑞星エンジンの採用は、当時一千馬力級で一番小さい直径による正面面積の小ささを狙ったものだった。自社エンジンであるのをいいことに、一段二速過給器は、全開高度を一速四千、二速七千と高空側に振った特別仕様で高高度での馬力低下を少なくした。反面、低空では出力不足から高度の上がりの悪さと離着陸距離の長さを指摘された。
だが軍は、偵察機であり、実用高度での性能が保証されるのであれば問題なしと採用を決定した。
増加試作機で試験中に少々負荷が掛かる機動をして主翼にしわが寄るという事件が発生。
これは計算上大丈夫であったが、実際の負荷が計算上の数値を上回ることが同じ三菱で海軍の戦闘機開発部署から教えられた。
改設計された主翼は強度が増し最高速度も向上するという嬉しい事態だった。
陸軍は当初、防弾は無しで速度に極振りと言う条件を出していたが、やはり防弾は必要と言うことで防弾タンクと防弾鋼板を装備した。
主翼の改善での速度向上は、重量増しでの速度低下と相殺された。
離陸滑走距離と上昇力は悪化した。
それが百式司令部偵察機一型であった。
現在は二型で、瑞星エンジンの出力が一千二百馬力まで上がった事で、離陸滑走距離の短縮と上昇力は一型よりも向上している。水平全速も六百十km/hまで出せるようになっていた。
海軍の徳山燃料廠で百オクタン航空ガソリンが生産されるようになり、陸軍にも提供されるようになってきた。このガソリンを使用すると六百二十km/hまで速度が上昇した。高空性能も若干だが良くなった。
この速度でも、優速の敵機が現れるのは必然であり、さらなる向上のためのエンジンテストに入っている。
候補は三菱が試作した瑞星の十八基筒版と中島の誉である。金星エンジンはその出力と実装時の正面面積から余り性能の向上が期待されないため、テストからは外れた。金星エンジンの最終型は水メタノール噴射と百オクタンガソリン使用で一千七百馬力が出ている。ただ軍の方は水メタノール噴射の実使用時間の少なさ(タンク次第)や整備の煩雑化と水メタノールタンクの設置による重量増を嫌っている。
瑞星の十八基筒化は火星の十八気筒化と同じく、無理のない設計で問題も無く仕上がった。金星の十八基筒版は高性能を狙いすぎたのか上手くいっていない。
瑞星の十八基筒版は離床出力一千七百馬力であり、始めから性能向上は二千馬力まで届かないだろうと言われている。
三菱としては、従来の瑞星エンジンや金星エンジン装備機の換装用として開発したもので、そこまで高性能は狙っていない。それよりも、従来の瑞星の部品を多用することで整備性の悪化を防ごうとした。
使われている新技術は無く、実に安定していた。
対して中島の誉は(先日、軍に制式化された)金星よりも小さい直径で二千馬力とすべく苦闘していたが、国内での百オクタンガソリンの供給開始と、軍の説得により三菱の技術を使うことで二千百馬力のエンジンが出来上がっていた。
三菱の技術とは、機械式燃料噴射装置とトランジスター点火装置である。
潤滑油はアメリカ製の品質とは行かないものの、かなり良いものが出来ており潤滑系の不具合さえ解決すれば、制式化は問題なかった。先日、遂にオイルポンプの問題が解決し、制式化となった次第である。
試験飛行では、瑞星の十八基筒版で六百八十km/hの高速が発揮され、周囲を喜ばせた。
実は三菱としては誉は使いたくなかったのだが、軍の説得を受け試験した。
結果、七百km/hを超えた。これは日本の機体としては初めてで、海外の情報でも軍用機では存在しなかった。
この七百km/h超えは軍を興奮させ、正式採用とされた。
ここに中島の復讐は成った。(試製栄の失敗以来、空冷星形十四気筒エンジンは全て三菱製であった)
実に水平全速七百三十km/hだった。
これでは、新型小型機用十八気筒エンジンは全て中島になってしまうとして、金星の十八基筒版の実用化に拍車が掛かるのであった。
尚、瑞星の十八基筒版は従来金星を使っていた機体の性能向上による延命策として成功であった。零戦が大戦終結まで一線機でいられたのはこのエンジンに寄るところが大きい。
ロシアは自国での航空機開発はしておらず、日本製の機体を使っていた。ライセンス生産である。日本もロシアが倒れると不味いのでライセンス料は格安だった。
もし魔改造という言葉の発祥を聞かれたら、ロシアと答える人間が多いだろう。
ロシアが使っていた機体は、鍾馗、一式戦、九十九式襲撃機、一式陸爆、屠龍、百式司令部偵察機、等。
鍾馗と一式戦につては文句もなく使っていた。特に鍾馗は気にられたようである。
九十九式襲撃機については日本同様初期の損害の多さに、引っ込められた。戦闘機の護衛がなければカモであった。その不整地での離着陸性能の高さから、現在は前線偵察機や後方で連絡機として使われている。
一式陸爆は、高速緩降下で小型爆弾多数による面制圧という運用指針が受けたのか、使われている。
九十七式重爆や百式重爆は、搭乗人員の割に爆弾搭載量の少なさが気に入らなかったようだ。
そして屠龍であった。
ロシアも初期は一型を運用していたが、その胴体下面に装備された20ミリ機銃三基の整備性の悪さに悩まされ遂に撤去してしまった。
その後に装備されたのはホチキス二十五ミリ機銃だった。ロシアが手に入れやすい大口径機関砲は日本製しかなかった。威力で言えば三十三ミリだが三十三ミリ機銃は余りにもデカくそして重かった。
二十ミリ機銃は機首下面の一基も撤去した。
二十五ミリ機銃は機体下面をまずフラットにした上で装備された。フラットにされたのは胴体後部で改造である。
また機銃の整備のために胴体側面に点検口を大きく設けた。弾倉形式の機銃であり、弾倉は機銃上面だった。弾倉は後部座席付近に位置したため、単座化した。後席のあった所に弾倉を改造して電動で弾を送り込めるようにした装置が取り付けられた。
胴体下の二十五ミリ機銃は外して爆装出来るようになっていた。
機銃を取り外した場合には、主翼下面と胴体下面が同一平面になり整流のためのフィレットが必要になるが、胴体との境目に縦にフィンを取り付けてフィレットがいらないようにした。
単座化して後方視界が問題になり、鍾馗のキャノピーが付けられるように改造した。
もう胴体部には原型機の面影はない。
エンジンの金星は一千三百馬力の出力で、屠龍一型を五百七十km/hの速度まで引っ張れた。
それに換えて瑞星の十八基筒版「風星」を搭載。
胴体の大々的な改変によって前面投影面積の減少がなり、大出力と相まって六百三十km/hの速度を得た。
もう原型機の面影はなかった。
ロシア KR-1 双発単座戦闘爆撃機 (КЯ-1)
エンジン 三菱「風星」一千七百馬力二基
最高速度 六百三十km/h
武装 固定
ホ-103 二丁 機首 装弾数各二百発
武装 交換
ホチキス二十五ミリ機銃二基 装弾数各八十発
主翼内側に二百五十キロ爆弾二発またはそれ以内の重量で四発
二十五ミリ機銃取り外し後
五百キロ爆弾一発、二百五十キロ爆弾二発、百キロ爆弾四発、五十キロ爆弾八発のいずれか
これにより戦闘機としても対地攻撃機としても使えるようになり、一式陸爆は使われなくなった。
KRのKは原型の屠龍を作った川崎のKである。Rはロシア。
二十五ミリ機銃は無垢の徹甲弾をホチキスから教えて貰っていて対戦車攻撃では上面やエンジン部を狙い撃ちすることで効果を上げた。
二十ミリと比べれば威力のある弾であり、B-25でも数発当たれば撃破出来た。
問題は発射速度が遅い事だが、連装で毎分三百発、一秒五発は、遠くから少しずつ撃ちながら照準を修正していくというやり方でも弾切れになりにくく、下手くそには有り難かった。
この改造にはシコルスキーも関わっており主導的な働きをした。彼は、赤化革命の時、家族や工場関係者共々ロシアに逃げてきた。ロシアで日本機のライセンス生産をしながら、ヘリコプターの開発をしている。
シコルスキーの持ち出した膨大な資料の中には日本で知られていない貴重な資料があり、その中にエリングのガスタービンの資料も含まれていた。
現在、ロシアと日本の共同でガスタービンエンジンを開発している。現在、試作エンジンがようやく百時間運転を実現したところである。
耐熱材料に関してはロシア・マガダンからカムチャッカにかけて金属系地下資源の宝庫で、近年相次いで有用な金属鉱床が発見されている。
マガダンまで無理をしてでも鉄道を引いたニコライ二世の先見の明が光る。
貴重な人がいました。
トハチェフスキーもロシアにいることにしよう。
実際、バイカル湖以東がロシアになっていたら居たかも知れない。
ロシアの人口は四千万人くらいと想定しています。そのうち三千万人が朝鮮半島に住んでいるという設定です。
次回は未定です。




