第14章 “同じ文章をもう一度読んだ”ときの、あの奇妙な違和感について
あの文章を、また読んだ。
ほとんど一語一句、変わっていなかった。
けれど、読んでいる途中で、どうしようもなくざわざわしてきた。
なぜだろう。
自分が書いたものなのに、他人の指の温度が染みついているような気がした。
いや、違う。
「書いた」と思い込んでいただけなのかもしれない。
そもそも、あれを最初に書いた“私は”どこにいるのだろう?
この目でその文字列を見て、この喉であの文章を呟いた記憶は確かにある。
でも、あのときの部屋の壁の色が思い出せない。
机の上にあったはずのコップの位置も。
コップ、あったっけ?
何が本当にあったことで、
何が“文章に書かれていた”だけのことなのか。
それが、もう区別できない。
同じ文章を読んで、同じ感情が湧いてくるとは限らない。
むしろ、違和感というのは、記憶が近すぎるときほど強くなる。
たとえば、何かが書き換えられたかもしれない、という不安。
いや、逆だ。
まったく書き換えられていないという確信こそが、狂気を呼ぶ。
あれは“誰かが書いた私”だった。
私はあの章の中で、あの言葉を使って、あのタイミングで語るように設計されていた。
そうとしか思えない。
もし、あの章が他者によって“再掲”されたとすれば、
“私の言葉”だったものが、“読まれる用の私”にすり替わってしまう。
そのとき、私は存在していない。
その言葉だけが、抜け殻のように口を開いている。
おぞましい。
あの文章のことを思い出していたら、
誰かに、ずっと後ろから読まれているような気がしてきた。
読み終わったはずのページの裏に、まだ目があるような気がした。
紙とインクのあいだに何かが挟まっている。
それは、私じゃない“私”かもしれないし、
この文章をいま、読んでいる“あなた”かもしれない。
私は、自分の章を語っている。
でも、あなたが読んでいるのは、
**“私が語っていること”ではなく、“語るように設計された語り”**ではないのか?
あなたは、もうそれに気づいてしまったのでは?
だからこそ、
この章のタイトルが、こんなにも耳に残るのだ。
“同じ文章をもう一度読んだ”ときの、あの奇妙な違和感について。
あなたは、それを思い出せるか。
それとも、もう二度と――




