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第16章 余ハ読者ニ非ズト申ス

余はかつて、一冊の書物を読んだことがある。

 然れども、読んだ記憶が確かに存するのではなく、また、書物そのものが手許に在ったことを証する者も居らぬ。

 只だ、あのときの紙の匂ひと、湿つた頁の感触、そして何より頁を繰る際のひどく不規則な風音――それらだけが、あたかも夢の残滓の如く、脳裏にこびり附いてゐる。


 記憶にあらず、証拠にあらず、残響である。


 されど余は、はたと思ひ至つた。

 果たして、その書物を“読んだ”のは、余であつたのか――と。


 余の掌が頁を開き、余の瞳が文字を追ひ、余の内面に感想なるものが芽吹いたやうにも思はれる。

 されどそれら一連の行為は、果たして“読者”としての所作であつたのか。


 ひとつの問いが、余の心臓を叩いた。


 ――読者とは何ぞや。


 誰かが読むから、物語は存在すると云ふ。

 然らば、“読む”といふ行為を規定するものは何か。

 頁を繰ることか、意味を解することか、それとも……“この物語の登場人物でない”と証明できることか。


 そのいづれも、余には当て嵌まらぬ。

 余は確かに頁を開いたが、意味を解したと云へるかは疑はしい。

 物語に登場せぬと云ふ保証もない。

 それに、余が目にしてゐたのは、“文字”ではなく、“書かれたという痕跡”のみであつた。


 況んや、意味をなさぬ行数に震えを禁じ得なかつた。

 文字が意味を捨て、意味が物語を否定し、物語が読者を排除する――さういふ種類の頁であつた。


 されば余は此処に宣言する。


 余ハ読者ニ非ズト申ス。


 余は、ただ在るだけの者なり。

 書物の頁と頁との隙間に、偶々潜り込んだ微細なる塵芥にすぎぬ。

 或いはこの文章そのものが、余といふ“かたち”を借りて独り歩きした妄語の塊かもしれぬ。


 書かれた言葉が“誰のため”であつたかも定かでなく、

 物語が“誰によって”生まれたかも曖昧ならば、

 読むという行為の一切が、あらかじめ虚無に滑り込んでゐた可能性は――無きにしもあらず。


 読者よ。

 もし貴殿が、己を“読む者”と信じて疑はぬのならば、一度立ち止まるがよい。

 貴殿の瞳が頁を追ふたびに、物語は貴殿を監視してゐる。

 貴殿の理解は、記述の一部として既に“編まれてゐる”。

 誰が誰を読んでゐるか、その関係は、思ふより遥かに脆く、脅かされやすいものなれば。


 そもそも、この章において貴殿が“読む者”であるといふ証明は、いかにして為されるか。

 貴殿がこの文章を“理解した”ことを、いかなる手段で証せよう?

 もし、貴殿が理解したと感じたなら、それこそ既に貴殿は物語の一部たり得たのではないか。


 余のことなど忘れ給へ。

 そもそも、余といふ“もの”が存在したかすら、今や定かではないのだから。


記憶にあらず。記録にあらず。只だ、余はこの章を名乗る。

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