とある××××公爵の独白②
朝は、決まって同じ時間にやってくる。
やがて聞き慣れた足音が近づいてきて、地下牢の鉄格子越しに朝食が差し入れられる。
「おはようございます、公爵」
気さくな声だった。
振り向けば、いつもの看守が笑っている。
罪人であるテオドールにも礼節を崩さず接してくれる、変わった男だった。
「……おはよう」
「聞きましたか、公爵」
「……元、公爵だ」
何度そう言っても看守はいつも優しい笑顔を浮かべるだけだ。
「東の国で、新しい万能薬ができたそうですよ」
看守は楽しそうに話を続ける。
「王都じゃ高すぎて庶民には手が出ませんがね。怪我も病気もすぐ治るとか。最近じゃ商人も薬師も東へ行きたがってるそうですよ」
「そうか」
テオドールはなぜだかふいに、娘が熱心に支援していた、薬学の才能を持つ若者を思い出した。
「いやぁ、羨ましい話です。うちの国も昔は景気が良かったんですがねぇ」
看守は苦笑すると、空になった食器を持って立ち上がった。
「では、また明日」
鉄の扉が閉まる音が、静まり返った地下牢に響く。
残されたのは、冷たい沈黙だけだった。
テオドールはゆっくりと目を閉じる。
思い返さない日は、一日たりともない。
自然と、あの日の記憶が脳裏に蘇っていた。
◇◇◇
最初は夢だと思った。
目を覚ますと、公爵邸の書斎だった。
十年前の日付。
懐かしい使用人たち。
そして、七歳のリリアーナ。
だが、夢にしてはあまりにも鮮明だった。
肌を撫でる朝の空気も。
窓から差し込む日差しも。
紙をめくる音さえ現実そのものだった。
何が起きたのかはわからない。
それでも、一つだけ思った。
――やり直せる。
神が与えた奇跡なのか。
あるいは悪夢なのか。
答えはどうでもよかった。
娘を救えるのなら、それでよかった。
◇
私は仕事を減らした。
領地経営も、貴族との付き合いも最低限にした。
できる限りリリアーナと過ごす時間を増やした。
「リリアーナ、一緒に庭を歩こう」
「……はい」
返事はする。指示にも従う。
しかし、その瞳には何も宿っていなかった。
笑わず、怒らず、泣きもしない。
七歳の少女とは思えないほど静かで、感情が抜け落ちていた。
私は毎日話しかけた。
食事も共にした。本を読み聞かせた。
初めて彼女の髪を結んだし、菓子を一緒に焼いたりもした。
仕事の合間を縫って花を見に行き、亡きセシリアの思い出も語った。
「お母様は、この花がお好きだった」
「……そうですか」
そう、一言答えるだけだった。
何をしても、届かない。
以前のリリアーナなら、目を輝かせて質問を重ねてきたはずだった。
それが今では、人形に話しかけているようだった。
私はリリアーナが、精神干渉を受けているのではないかと疑った。
王家との婚約を機に、急変した娘の性格。
しかも、どんなに向き合っても、どんなに愛情を注いでも頑なに変わることはない。
母親を亡くして傷ついているでは説明がつかない気がした。
アルヴェルト家は代々、王家に都合よく管理されるために、精神干渉を受ける宿命にあった。
しかし、それは成人し、一族の秘密を継承した者にのみ施されるものであるはずだ。
それも、あらかじめ当人へ説明した上で行われる。
拒否権など存在しないが、それでも人格を根底から壊すほどの強制力はない。
まして、まだ七歳の子供へ。
性格が一変してしまうほどの強い干渉など、聞いたことがなかった。
さすがにそんなことはありえない――そう自分に言い聞かせ、その疑念を胸の奥へ押し込めた。
◇
また、リリアーナは時々おかしなことを言うようになった。
ある日、不意にリリアーナが呟いた。
「……冷蔵庫があれば便利なのに」
「れいぞうこ?」
聞いたこともない言葉だった。
私が聞き返すと、リリアーナは首を傾げた。
「……私、何か言いましたか?」
とぼけているわけではなさそうだった。
私も聞き間違えかと思い、あまり深くは追及しなかった。
また別の日のことだった。
騎士団の練習を遠くから眺めながら、彼女はぽつりと言う。
「……マルク隊長だわ」
その名を知っていたことではなく、“隊長”と呼んだことが引っ掛かった。
「彼らは新人騎士だから、あそこに隊長はいないよ。リリアーナ」
「……?」
また黙って不思議そうな顔をする。
十年後、王室直属部隊隊長となった男の名は、マルクだった。
もちろん、偶然かもしれない。
しかし、そんなことが何度かあった。
知らない言葉。
知らない知識。
未来を見てきたような物言い。
七歳の子供が知るはずのないことばかりだった。
◇
それからも、私は諦めなかった。
毎日話しかけた。毎日抱き締めた。
愛していると伝えた。
叱ることもなく、ただ娘を信じ続けた。
しかし、月日が経つにつれ、リリアーナはまたしても壊れていった。
無表情だった少女は、突然癇癪を起こすようになった。
使用人へ怒鳴る。
物を壊す。
些細なことで取り乱す。
その異常さに私は愕然とした。
原因を調べた。
すると、少しずつ見えてきた。
後妻候補のレイナと義弟エドガーによって、屋敷から居場所を奪われていたこと。
騎士団長の息子カイルから執拗な暴力を受けていたこと。
侯爵家子息ユリウスから逃げ場のない執着を向けられ、精神を追い詰められていたこと。
娘の心を抉る出来事が、いくつも起きていた。
だが、私が知った頃には、もう遅かった。
リリアーナは誰も信じなくなっていた。
◇
学園へ行かせるべきではない。
何度もそう思った。
だが、閉じ込めれば、部屋中の家具を壊した。
外へ出さなければ、自分の腕を傷つけ、泣き叫び続けた。
結局、私は学園へ送り出すしかなかった。
そして、手繰り寄せたはずの二度目の未来は、一度目と何も変わらなかった。
魔族と手を組み、古代魔獣を召喚し、王都を崩壊させる。
私たちはまた、あの忌まわしい断頭台へ送られる。
娘は処刑され、私もまた、同じ場所へ立っていた。
血に濡れた娘の首が、私の足元に転がった。
また、守れなかった。
やり直したはずなのに。
今度こそやり直せると思ったのに。
私は二度目の人生でも、娘の笑顔すら見ることができなかった。
無情にも刃が振り下ろされる。
首筋を鋭い痛みが走り、世界が暗転する。
◇
目を開ける。
見慣れた公爵家の書斎。
窓から差し込む、暖かな朝日。
壁に掛かった暦。
――十年前の日付。
また。
私は、十年前へ戻っていた。




