第69話 祝福された完璧な王太子様⑪
王都には、まだ焦げ付いた煙の匂いが重く残っていた。
無惨に崩落した建物。瓦礫で封鎖された街路。臨時の救護所で負傷者の治療に追われる神官たち。
行き交う人々の顔に浮かぶのは、濃い疲労と、拭いきれない不安だけだった。
「西区画、通行再開の目処は立っていません!」
「避難民の受け入れ先が圧倒的に足りないぞ!」
「結界修復班、至急応援を――!」
あちこちで怒号が飛び交う。
だが、それでも王都は滅びなかった。
◇
一方、王城では地上の復旧とはまた別の、泥沼のような混乱が続いていた。
「宰相閣下、教会は追加監査を要求しています。北方貴族連合からは王家への抗議声明が届き、大教会からは“管理術式”に関する全資料の提出命令も下りました」
矢継ぎ早に報告を受けた宰相は、心身ともに磨り減った顔で幾度も頭を押さえた。重臣たちの表情も一様に昏い。
レオンハルト一人を切り捨てたところで、ヴァルディア王家への絶対的な信頼は、すでに完全に瓦解していた。
◇
そして、すべての権力を剥奪されたレオンハルトは、王城の西棟へと事実上軟禁されていた。
仮にも元王太子である彼のために用意された、贅を尽くした広い部屋。
だがそこは、歴代の狂った王族を死ぬまで閉じ込めておくための、二度と逃げられない“美しい監獄”だった。
そこにはもう、誰もやってこない。
従順だった側近も、媚びを売っていた貴族も、かつて“完璧な王太子”と彼を熱狂的に讃えていた者たちも。そして、友人と呼べる者さえも。
落ちぶれた元王太子のもとを訪れる者は、もう誰一人としていなかった。
「……」
レオンハルトは、ただ一人で窓の外を見下ろしていた。
小さく崩れた王都の街並みと、遠くで蟻のように動く復旧作業の列。
自分が二度と、あの地へ足を踏み入れることはないだろうと考えながら。
「あいつは……一体、何がしたかったんだ」
ぽつり、と誰もいない室内に掠れた声が落ちる。
王家への復讐のためか。
それとも、母親を奪った私への狂気的な憎悪の果てか。
ただそれだけの個人的な感情に任せて、国家級の災害を引き起こしたというのか。それではあまりにも合理性がない。彼には、どこまでも理解不能だった。
「……」
レオンハルトは静かに目を閉じる。
考えれば考えるほど、思考は迷宮へと迷い込んでいく。
あの不敵な魔女は、あの瞬間、一体何を見ていたのか。
何を考えていたのか。
そして、どうして最後に自分を見る時、あんなにも深く昏い、哀れむような目をしていたのか。
◇
その頃、王都の地下では今もなお、決死の大規模捜索が続けられていた。
騎士団、神官、宮廷魔術師――国家の総力を動員した捜索網は、地下礼拝堂から地下水路に至るまで、考え得るあらゆる場所を虱潰しに調べ尽くしていた。
しかし、報告されるのは「反応なし」という結果ばかりだった。
リリアーナ・フォン・アルヴェルトの遺体はおろか、一片の髪の毛すら見つからない。
崩れ落ちた石壁と、燃え尽きた術式の残滓が、薄暗い空間に焦燥感を満たしていた。
そんなときだった。
「……これは、一体……」
旧礼拝堂跡の調査隊を率いていた神官の一人が、床を見つめ、その顔を激しく強張らせた。
「どうした、何を見つけた」
「偽装術式、です……」
煤まみれの床一面に刻まれていたのは、あまりにも複雑に絡み合った魔法陣だった。
空間転移の攪乱。
魔力残滓の偽装。
さらには追跡そのものの因果をねじ曲げる阻害術式。
しかも、それは一つだけではない。
「……周囲一帯に、複数のダミーとなる転移痕跡が仕込まれています」
神官の顔から、さっと血の気が引いていく。
「まさか……最初から、古代魔獣を完全復活させる気などなく、その力だけを暴走させ、自らは逃げ延びるつもりだったというのか」
その場に、凍りついたような沈黙が落ちる。
つまりリリアーナは最初から、あの地下礼拝堂で王家と刺し違えて死ぬつもりも、古代魔獣の召喚と引き換えに命を捧げるつもりも、毛頭なかったのだ。
王都を恐怖へ叩き落とした古代魔獣でさえ、彼女にとっては最初から使い捨ての駒にすぎなかった。
「――隠し部屋を発見しました!」
別の区画から騎士の叫び声が響く。
調査隊が駆けつけると、地下最深部の崩落したレンガ壁の奥には、外部からの探知を完全に遮断した小さな保管室があった。
「……これは」
埃っぽい室内。
木机の上に整然と並べられていたのは、目を見張るほど大量の研究資料だった。
『王家管理術式・魔力経路の完全解析』
『精神干渉構造の分解と無効化について』
『アルヴェルト家管理記録・王家書庫写本』
『古代魔獣召喚術式・局所的接続実験』
さらに、その奥にあった書類の束を目にした神官たちは、完全に息を呑んだ。
エドガー。
カイル。
ユリウス。
そして、ミレイア。
そこには、彼らの詳細な行動分析や心理傾向、そして『いかにして王家の精神干渉と監視の目を盗み、彼らを自然に破綻させるか』の緻密な計画が、びっしりと書き連ねられていた。
室内の空気が、完全に凍りつく。
「……全部、最初から計算していたのか」
誰かが掠れた声で、戦慄を隠せず呟いた。
レオンハルトの周囲にいた人間たちが次々と壊れていったのは、決して偶然などではなかった。
すべては、“完璧な王太子”を完璧に孤立させ、この日、この瞬間に引きずり下ろすため。
そのためだけに積み重ねられた、恐るべき布石だったのだ。
調査の指揮を執っていた大神官が、震える手で静かに資料を閉じる。
「……あれは」
地を這うような低い声が、暗い部屋に響いた。
「……あれは本当に、我々と同じ人間だったのか」
その問いに答えられる者は、もう誰もいなかった。
――少なくとも、その場にいる者の中には。
◇
その頃。
騒乱の王都から遠く離れた、のどかな地方都市。
人通りの少ない石畳の道を、一人の女が歩いていた。
顔を深く覆う外套のフード。
仕立ての悪い、簡素な旅装。
手元の荷物はわずかしかない。
それは、過去のすべてを捨て去った者の身軽さそのものだった。
すれ違う住人たちも、まさか彼女が国を揺るがした世紀の大罪人だとは夢にも思わない。
誰一人として、その正体に気付く者はいなかった。
女はふと足を止め、優雅な仕草で小さく空を見上げた。
どこまでも突き抜けるような、美しい青空。
フードの奥で、光を失い黒く濁っていたはずの濃紺の瞳が、静かに、本来の鮮烈な輝きを取り戻していた。
「さて――」
薄い唇が、愉しげに小さく弧を描く。
「次は、どうしようかしら」
次回最終回!




