第68話 祝福された完璧な王太子様⑩
王城中央会議室。
重苦しく澱んだ沈黙が、張り詰めた空間を完全に支配していた。
厚いカーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいる。だが、誰一人としてその清々しい光に目を向ける余裕などなかった。
長机を囲むのは、この国の最高中枢。
国王、王妃、宰相、大貴族の長たち、騎士団長。そして、教会側代表である大神官。
誰もが死人のように青ざめ、固く口を閉ざしている。
机の上に山のように積まれているのは、今回の災厄に関する最終報告書だ。
王都の凄惨な被害状況、壊滅的な結界の損傷、未だ深刻な魔力汚染が続く避難区域。そして――教会が検出した決定的な“禁術運用記録”。
その書類の最後部には、一際異彩を放つ一文が記されていた。
『リリアーナ・フォン・アルヴェルト 行方不明』
◇
「……中央区画の被害は、現在も集計を続けております」
宰相が、何十歳も老け込んだような掠れた声で報告を紡ぐ。
「外周の主要三区画は半壊。結界汚染区域は住民をすべて強制退去させ、依然として封鎖状態。城下では王家への強烈な不信感による、民衆の激しい混乱と暴動の兆候が続いております……」
誰もが精神的に磨り減っていた。
だが、今この場にいる全員が理解している。本当に国家の危機を招いているのは、物理的な被害そのものではない。
この王国において、王家と教会は国家運営を支える“両輪”だ。互いを牽制し合えるだけの独立した権威を持つ。
だからこそ、今回のように教会の定めた絶対法を破った証拠を正面から突きつけられた時点で、王家といえど黙殺は不可能なのだ。
「……教会側の、最終的な要求は何か」
国王が、絞り出すように低く問う。
大神官は、一切の躊躇なく、冷徹に答えた。
「王家が秘匿している管理術式の全面開示。禁術を運用していた責任者の厳罰処分。及び――次期王位継承権の再審議です」
室内の空気が凍りつく。
王太子の廃位。実質的な国家の首替え要求だ。だが、それを聞いてなお、王家側の誰一人として異議を唱える者はいなかった。
◇
その針のむしろのような空気の中心で。
レオンハルトだけが、未だに自分の“正しさ”を信じて静かに佇んでいた。
「アルヴェルトへの管理は、必要でした」
低く、どこまでもよく通る声が会議室に響く。重鎮たちの視線が、一斉に彼へと集まった。
「アルヴェルト家は、いつ暴発するか分からない危険血統です。今回、リリアーナが古代魔獣の召喚を仕組んだことで、私の懸念が正しかったと完全に証明された。もし事前に管理をしていなければ、これ以上の……いや、国そのものが滅びる被害が出ていた可能性すらあります」
真っ直ぐな声。一切の淀みも、迷いもない。
本気で自分は国家のための正義を行い、何一つ間違えていないと信じ込んでいる人間の声だった。
だから。会議室の空気は、さらに冷え切った。
「……まだ、そんなことを言うのか、貴様は」
誰かが掠れた声で、絶望を乗せて呟く。
しかしレオンハルトは、己の正当性を証明するために淡々と弁論を続けた。
「問題の本質は、術式の制御失敗にあります。管理という方針そのものは必要不可欠だった。彼女を制御するための精神干渉も、長期の監視も、婚約による拘束も。すべては国家維持のために――」
「黙れッ!!!!」
凄まじい怒声が、会議室を震わせた。
全員がビクリと肩を揺らし、息を呑む。
叫んだのは――国王だった。
これまで静観と沈黙を守っていた男が、初めて剥き出しの情動を爆発させていた。
「貴様という奴は……! 一人の人間を、一体何だと思っているのだ……!!」
そこに含まれていたのは、父親としての怒り、王としての嫌悪、そして、目の前の我が子が“まともな倫理観の通じない怪物”に変貌していたことへの純粋な恐怖のように見えた。
だが、レオンハルトにはその激昂の理由が理解できない。彼は不審そうに、僅かに眉を寄せた。
「……父上も、事前にすべて承認していたでしょう。リリアーナへの精神干渉術式の組み込みも、公爵家の監視体制も。すべては王家最高幹部の承認事項のはずです。なぜ今更、私一人の独断であるかのように激昂されるのですか」
淡々とした、事実の確認。
言い逃れをしたいわけではない。論理的な矛盾を指摘しただけ。だからこそ、その言葉はあまりにも残酷に、国王の退路を断った。
国王の顔色が、一瞬にして土気色へと変わる。
一瞬だけ。本当に一瞬だけ、その目に致命的な動揺が走った。
――そう、危険血統の排除・管理は、多かれ少なかれ王家全体の総意だったのだ。
だが。次の瞬間には、国王の目から"父親"としての光が完全に消え失せていた。
「……レオンハルト。妄言はやめろ。全て、貴様の“独断”で行ったことだ」
地を這うような、低い声。
「確かに私たちはアルヴェルト公爵家の管理、監視を行っていた。しかし長い歴史の中で、禁術などには手を出していない。国家の未来を憂うあまり、お前が狂気的な危険思想に取り憑かれ、暴走したのだ。我が王家は、お前が裏でそこまでの禁術を拡大運用していたなど、一切把握していない。王家は、お前の歪んだ完璧主義に利用された被害者だ」
会議室が、しんと静まり返る。
レオンハルトの青い瞳が、初めて、目に見えて大きく揺れた。
「……父上、何を……」
彼はしばらくの間、言葉を失って立ち尽くしていた。ただ静かに、冷徹な目で自分を見下ろす実の父親を凝視している。
その瞳に浮かんでいたのは、裏切られたことへの怒りではなかった。
―― “困惑”だ。
なぜだ。なぜ国のために最善を尽くした私が、悪者にされている?
その瞳は、本気でそう訴えていた。
王の言葉は、完全な嘘ではなかった。
王家は代々、アルヴェルト一族への監視と最低限の精神干渉を行っていた。
だが、リリアーナだけは別だった。
――かつての“あの件”以来。
彼女には異例とも言える多重の精神干渉術式が施され続けていた。
そしてレオンハルト自身は、今なお気づいていない。
それが、かつて自分が引き起こした過ちが巡り巡って招いた、破滅の始まりだったことに。
国王の言葉に、周囲の側近や重臣たちは、ただ一斉に深く顔を伏せた。誰もレオンハルトを擁護しない。反論などできるはずがなかった。
正確には、レオンハルトの独断で禁術を使うことなどできないと、ここにいる全員がわかっていた。しかしここで「王家全体が禁術に関わっていた」と認めれば、王朝そのものが転覆する。
だから、秩序のためには切り捨てるしかない。
レオンハルト一人を。
◇
「教会として、正式に要求いたします」
レオンハルトの哀れな姿を見据え、大神官が静かに引導を渡した。
「禁忌を犯し、王国の権威を失墜させた大罪人――レオンハルト・ヴァルディアの、王位継承権の永久剥奪を」
かつて彼を熱狂的に支持していた重臣たちも。
彼の優秀さにすがっていた貴族たちも。
共に戦った騎士団長すら。
誰もが静かに視線を逸らし、沈黙を守り続けている。
かつて、誰もが憧れ、平伏した完璧な王太子。
絶対に間違えない、間違えるはずがなかった、生ける理想。
その美しき幻想が、今、音を立ててドロドロの泥へと崩れ去っていく。
国王が最後の宣告のために口を開く。その声は、微かに震えていた。
「……レオンハルト・ヴァルディア。貴様の、王位継承権を剥奪し、すべての地位と特権を此処に召し上げる」
部屋の空気が、完全に止まった。
その瞬間――初めて、レオンハルトの端正な顔が、絶望によって無惨に歪んだ。




