第67話 祝福された完璧な王太子様⑨
長い、地獄のような夜が明けようとしていた。
瘴気で赤黒く染まっていた空は、夜明かりに押し出されるように、ようやく薄く白み始めている。
だが、朝を迎えた王都のあちこちからは、未だに黒い煙が立ち上っていた。
無惨に崩壊した街路。形を失って倒壊した建物。至る所に刻まれた、結界侵食の痕跡。
――だが、最悪の事態だけは免れた。
中央結界は辛うじて維持され、王都を呑み込もうとしていた瘴気の拡大も、ようやく止まりつつあった。
しかし地下礼拝堂の封印区画では、なお予断を許さない状況が続いていた。教会も王城術師団も手を出せず、ただ監視を続けることしかできなかった。
◇
王城、中央謁見広間。
辛うじて崩落を免れたその広大な空間には、異様な空気が満ちていた。
教会の高位神官たち。
騎士団長や大貴族たち。
王城術師団。
そして――玉座に腰掛ける国王。
その居並ぶ重鎮たちの視線の中心、広間の中央に、レオンハルトは毅然と立っていた。
王太子の正装を身にまとったまま。だが、その衣服は血と煤で酷く汚れ、全身に一晩の激闘の跡を刻み込んでいる。それでもなお、彼の背筋は一寸の揺らぎもなく真っ直ぐに伸びていた。
「……中央結界の出力、安定化を確認しました」
満身創痍の神官が、震える声で国王へ報告する。
「ですが……人的、物的な被害総数は、現在も集計不可能なほどに拡大しております」
重苦しい沈黙が広間を支配する。
誰も口を開かなかった。いや、開けなかった。
◇
「国王陛下」
重すぎる静寂を破り、最初に声を上げたのは大神官だった。
「この国の今後を諮る前に、我々として、どうしても確認しておかねばならぬことがございます」
静かな声音。だが、それは広間全体を物理的に凍らせるほどの冷徹さを孕んでいた。
「今回の災厄を引き起こした、あの地下の召喚術式ですが……教会の解析班により、我が国の“王家管理術式”と完全に一致したことが証明されました」
ざわり、と大貴族たちの間で不穏な動揺が走る。
「さらに解析を進めたところ、信じがたい事実が判明いたしました。その術式の根底には、我が教会の絶対禁忌である“精神干渉術式”が、長期間にわたって運用されていた痕跡が残されていたのです」
大神官の鋭い視線が、真っ直ぐ国王へと向けられる。
「……陛下。これは事実ですか。王家は、教会の目を盗み、禁術に手を染めていたのですか」
国王は答えない。ただ、青ざめた顔で固く唇を噛み締め、視線を彷徨わせる。
広間が本格的にざわめき始める。
「精神干渉だと……? あの狂気の魔術か!?」
「王家自らが禁術を運用していただなんて……」
困惑、嫌悪、そして王家への底知れない恐怖。その場にいる人間たちの感情がドロドロと混ざり合っていく。
その糾弾の嵐の中心で、レオンハルトだけは、どこまでも静かだった。
「必要な管理でした」
低く、よく通る声が響く。ざわめきがピタリと止んだ。
「アルヴェルト家は、一国を容易に滅ぼし得る危険性を秘めた血統です。国家の秩序を維持するためには、彼らを陰から監視し、制御することは当然の義務だった」
真っ直ぐな声だった。一片の淀みも、罪悪感もない。
本気で、己の行いこそが国家を守る正道と信じている。
だからこそ――広間の空気は、深海よりも冷たく冷え切った。
「では」
大神官が、憐れむような、あるいは突き放すような目でレオンハルトを見つめ、静かに言った。
「今回の王都崩壊の災厄は、その“完璧な管理”とやらが招いた結果なのではありませんか?」
レオンハルトの冷徹な青い瞳が、わずかに細くなる。
「あなた方が構築した精神干渉術式を経由して、古代魔獣の召喚は成立した。結果として、王都は滅亡寸前に陥った。……違いますか、王太子殿下」
レオンハルトといえど、これだけは否定できない。術式の解析結果はすでに共有されている。
誰の目にも明らかだった。
今回の召喚は――王家自身が築き上げた、管理構造を利用して引き起こされたのだ。
「…結果として、そうなっただけです。必要な処置でした」
「……レオンハルト・ヴァルディア」
謁見の間の天井に、大神官の容赦のない宣告が響き渡る。
「この件は、再度査問の必要がありそうですね」
その時だった。
「失礼いたします!!」
広間の重厚な扉が開き、一人の騎士が血相を変えて駆け込んできた。
「地下旧礼拝堂の調査班より緊急報告! 災厄の中心にいたリリアーナ・フォン・アルヴェルトですが――」
全員の視線が、弾かれたようにその騎士へ集まる。
「――消息不明です」
瞬間、謁見の間がしんと静まり返った。
騎士は息を整え、続けた。
「召喚術式は、リリアーナ・フォン・アルヴェルトが姿を消したのとほぼ同時に停止しております!」
「止まっただと……!?」
広間にどよめきが走った。
「はい!その直後、教会と術師団は封印を再構築し、古代魔獣の再封印を確認しております!」
息を呑む音が、あちこちから漏れた。
「では……王都は、助かったのか」
「はっ。しかし――」
騎士は唾を飲み込み、続ける。
「リリアーナ・フォン・アルヴェルトは監視を続けていた封印区画から、忽然と姿を消しました」
「そんな馬鹿な、追跡魔術はどうした!?」
「それが、周囲に展開されていた全ての魔力反応が、ある一瞬を境に完全に断絶しており……! 現在、騎士団の全戦力を以て捜索隊を――」
「無駄だ」
遮るように落とされた、静かな声。
レオンハルトだった。騎士が言葉を詰まらせ、息を呑む。
「……殿下?」
レオンハルトはゆっくりと目を閉じた。
「もう、どれだけ探そうとも見つからない」
それは、彼が導き出した、確実な答えだった。
一度も心が通じ合ったことはなくとも、管理し続けていたはずの婚約者。
その歪んだ檻の隙間で、まさか自分を遙かに凌駕する計画を一人で完遂し、王家に致命傷を与えてみせたのだ。
――そんな怪物が、今更、凡庸な騎士ごときに捕まるわけがない。
◇
リリアーナ・フォン・アルヴェルトは、消えた。
王家が隠し続けてきた醜悪な闇を白日の下へ晒し。
二度と立て直せぬほどの政治的致命傷を残し。
王都へ、その傲慢さを戒めるような深い爪痕だけを刻み。
そして――風のように消え去った。
あとに残されたのは、地下礼拝堂に転がる崩れた石片と、燃え尽きた忌々しい禁術の痕跡だけだった。




