第66話 祝福された完璧な王太子様⑧
王立大聖堂、中央結界維持塔。
天を衝く広間全体が、飛び交う怒号と狂ったような魔導具の警告音、そして防壁を浸食する赤黒い魔力光で満ちていた。
「北西結界、なおも侵食拡大!」
「第五避難区画、隔壁の封鎖完了!」
「神官班、魔力供給の限界です! 交代を急げ、急ぐのだ!」
術式光が何重にも展開される。
神官たちの顔には死人のような疲労が滲んでいた。呼吸を血の味に変えながら、それでも誰も手を止めない。
止めれば、その瞬間に王都が崩れる。誰もがその破滅の恐怖と戦っていた。
その張り詰めた緊迫感の中、塔の重厚な鉄の扉が開いた。
ざわり、と広間の空気が一瞬にして変わる。
現れたのは、レオンハルト・ヴァルディア。
その白銀の鎧に血と煤の跡をつけたまま、その佇まいには姿勢の揺らぎすら存在しない。
王太子の姿を認識した瞬間、広間には確かに安堵が走った。
だが、それは次の瞬間には不信と警戒に塗り潰される。
「……殿下」
大神官が低く呟く。
むしろ、得体の知れない怪物を前にしたかのように、神官たちは一斉に身を固くして警戒の視線を向けた。
だが、レオンハルトは周囲の鋭い視線など毛ほども意に介さず、中央の結界制御陣へと歩み寄る。
「現状を報告しろ」
あまりにも平然とした、静かな声。
「は、はい……! 中央結界の崩壊率、すでに六十二%を突破。侵食速度はなおも増加傾向にあります。このままでは、一時間以内に王都中央区画まで瘴気が到達します!」
神官が険しい顔で、浮かび上がる光の地図を指し示す。
「現在、我々の総力で結界核の負荷分散を試みていますが、中和が追いつかず――」
「遅い」
レオンハルトが即座にその言葉を遮った。
「補助術式の回路を根本から組み替えろ」
彼は広間の中央、最も魔力の荒れ狂う術式核の前へと進み出る。
その冷徹な青い瞳が、巨大結界陣の内部構造を瞬時に見据えた。
「北西と東部の回路を完全に切り離せ。中央核へ直接、全魔力を集中させる」
「……っ! ですが殿下、それでは切り離された外周区画が……!」
「全域を守ろうとするな」
低い声が、冷たく響き渡った。
「崩壊を止めるには優先順位が必要だ。末端の壊死を恐れて心臓を止めれば、国家そのものが死ぬ」
あまりにも合理的すぎる判断に、神官たちが息を呑む。
だが、レオンハルトの瞳に迷いは微塵もなかった。
「侵食の方向をあえて一部に誘導し、圧力を逃がす。中央結界核だけは死守しろ。――術式の並列制御は、私が行う」
レオンハルトが制御陣へ両手をかざすと、津波のような膨大な魔力が流れ込んだ。
眩いばかりの、神聖な青白い光。
先ほどまで神官たちが数人がかりでも制御しきれず暴れていた魔力流が、彼の圧倒的な出力と精密な演算によって、強引に、規律正しく組み替えられていく。
「制御、反転……! 侵食を押し返している……!」
「なんて演算精度だ……! たった一人で、この規模の術式を書き換えているというのか……!」
神官たちの顔色が、変わっていく。
速い。正確。そして、どこまでも容赦がない。
どこを切り捨て、どこを生かすかを即座に判断し、最小の被害で全体崩壊を防いでいる。
レオンハルト・ヴァルディアという男は、間違いなく人類の域を超えた天才だった。
◇
――ゴォォォォォン……!!
遠くで再び地鳴りが響き、王都が大きく揺れる。
だが、先ほどまで崩壊寸前だった結界光は、徐々に安定を取り戻し始めていた。
「中央結界、崩壊率の低下を確認!」
「五十七%まで回復! 瘴気の浸食、完全に停止しました!」
広間に一気の安堵が広がる。張り詰めていた糸が切れ、何人もの神官がその場へ崩れ落ちた。
「……持ち直した、のか」
「中央結界が、守られた……」
誰かが呆然と呟く中、レオンハルトは結界陣からゆっくりと両手を離した。
その白い額には薄すらと汗が滲んでいる。だが、その表情には一片の疲労も見せることはなかった。
「地下旧礼拝堂の物理封鎖を継続しろ。騎士団は、直ちに外周区の避難誘導に回せ」
淡々と、流れるように次の指示を飛ばす。
その無駄のない統率力、危機に際しても決して揺らがない背中は、民衆が理想としてきた“完璧な王太子”そのものだった。
だからこそ、次にこの広間へ訪れた沈黙は――異様だった。
◇
「……殿下」
大神官が、静かに口を開く。
それは、先程までの声色と異なり、凍てつくような、そして張り詰めた声だった。
「結界の安定に伴い、先ほど確認された召喚核の解析結果について……改めて、確認させていただきます」
一瞬にして、広間中の全ての視線がレオンハルト一点に集まる。
「リリアーナ・フォン・アルヴェルトに施されていた、精神干渉術式――我が王家が主導し、秘密裏に運用していたのは事実ですか?」
重苦しい沈黙。
レオンハルトは、逃げも、言い訳も、否定すらもしなかった。ただ、当然の事実を口にするように、淡々と返答する。
「事実だ。国家の天災となり得るアルヴェルトを管理するための、必要な処置だった」
静かな返答。その言葉が落ちた瞬間、広間の空気が音を立てて瓦解した。
「……必要、だと……?」
「冗談ではない! 精神干渉は、我が教会が絶対の禁忌に指定している危険魔術だぞ!」
「王家は裏で、一人の人間の尊厳をそこまで蹂躙していたというのか……!」
神官たちの間に、激しい怒気が滲み出す。
だが、レオンハルトは眉一つ動かさず、彼らの非難を正面から冷徹に見下ろした。
「アルヴェルト家は危険血統だ。世界の秩序を維持するためには、相応の制御が必要だった」
レオンハルトは、一片の罪悪感すら抱かぬ瞳で言い放つ。
「実際、今回の災厄はその危険性を証明している」
「……だから、その危険を理由に、我が教会の法を破って禁術を使ったと?」
「必要ならば、当然だ」
即答だった。
広間が、恐ろしいほどの静寂に包まれる。
言葉を交わす神官たちの顔から、怒りすらも消え、ただただ深い"戦慄"へと変わっていく。
この男は、心の底から、己の行いこそが絶対の正義であると盲信している。
言い逃れをする必要すら感じていない。
「……レオンハルト殿下」
大神官の目から、次代の王に対する敬意が、完全に、消え失せていた。
「貴方は……国家を運営するためであれば、個人の人格を禁術で支配するという非人道的な行いも、正当化されると仰るのですか」
「問題があるなら、法を変えればいいだけだ」
レオンハルトは、吐き捨てるように淡々と言った。
「秩序維持に必要なものは、許容されるべきだろう」
その答えに、誰も言葉を返さなかった。
中央結界は守られた。
王都も、彼の圧倒的な才覚によって、辛うじて完全崩壊を免れている。
だが――ここにいる全員が、心の底から理解してしまった。
この男は、自分が「国家のため、秩序のため」と定義しさえすれば、どんな悍ましい禁忌へも、どこまでも平然と踏み込める。
そして――死ぬまで、己のその狂気を疑うことすらしないのだと。




