第65話 祝福された完璧な王太子様⑦
地下旧礼拝堂の最深部。
レオンハルトは抜いた剣を構えたまま、静かに、そして真っ直ぐにリリアーナを見据えていた。
その青い瞳に宿るのは、一切の容赦のない、冷たい殺意。
「止めるつもり?」
赤黒い滅びの光の渦中で、リリアーナが鈴を転がすような声で問う。
「当然だ。これ以上の被害は出させない」
リリアーナは、可笑しそうに小さく笑った。
「それより、少し話をしましょうよ。私たち、婚約者だったのに、こうして2人きりでゆっくりお話したことなんて、一度もなかったじゃない?」
「……時間稼ぎのつもりか?」
「まさか。ただの、婚約者様との最後のお喋りよ」
「ふざけるな。地上の国民が窮地に陥っている中、お前と悠長に言葉を交わすつもりはない」
「へえ」
リリアーナは、小首を傾げた。
「まだ“正しい王太子”でいるつもりなんだ」
「……何が言いたい」
「別に」
不気味に揺らめく赤黒い光が、彼女の冷え切った横顔を妖しく照らし出す。
「もう何もかもが手遅れで、全部バレてしまったのに。……まだ、完璧な王子様のままでいられると思っているのが、滑稽で」
禁忌である精神干渉。
非倫理的な監視。
婚約による人生の拘束。
王家が彼女を縛るために使っていた悍ましい裏工作は、もう隠し通すことなどできはしない。
魔法陣の解析により、教会が気づくのも時間の問題だろう。
それでも、レオンハルトは微塵も揺らがなかった。
「アルヴェルトの血統は危険だ。国を維持するための、必要な処置だった」
どこまでも迷いのない、冷徹な声。
「処置……本当に好きね、その言葉」
リリアーナの美しい眉が、ぴくりと跳ね上がる。
「……じゃあ、お母様のことも? あれも、“国を維持するための必要な処置”だったの?」
静かな、けれど深淵から響くような問いだった。
レオンハルトは、一瞬だけ忌々しそうに、静かに目を伏せた。
「……あれは弱すぎたのだ。私は、私の側で助けてやるつもりだった」
「……っ」
レオンハルトは顔を上げた瞬間、思わず息を呑んだ。
見つめてくるリリアーナの瞳。
かつてセシリアの面影を残して星空のように輝いていた濃紺は、いつの間にか、光を一切反射しない泥のような黒へと濁りきっていた。
光を失ったそれは、底の見えない暗黒の闇そのものだった。
「ほらね」
カサリ、と乾いた小さな呟きが漏れる。
「あなたはどこまでいっても、反省も、後悔もしない」
リリアーナは俯いたまま続けた。
「でもあなた言ったじゃない。『この世界において、悪は必ず裁かれる』って」
そして再び漆黒の目をレオンハルトに向ける。
「今、その時が来たのよ」
次の瞬間、レオンハルトが猛然と踏み込んだ。
――ギィィィンッ!!
空気を切り裂く、鋭い剣閃。
だが。その刃がリリアーナの細い首筋へ届く寸前、凝固した赤黒い瘴気の障壁が凶暴に割り込んだ。金属が激突する甲高い衝撃音が地下空間を激しく揺らす。
「っ……!」
レオンハルトが、力任せに剣を押し込みながら眉を寄せた。
少女を守るように、床一面の魔法陣そのものが、絶対的な防御術式として機能しているのだ。
「無駄よ、レオンハルト」
リリアーナは至近距離の刃を前にしても、睫毛一つ揺らさずに静かに告げる。
「この召喚陣、もう私の命と一体化してるから」
「……何だと?」
「私を力尽くで無理やり止めれば、術式は一瞬で暴走するわ」
その言葉に応じるように、空間の裂け目の奥で、古代魔獣が歓喜を帯びた低い唸り声を上げた。大気が、空間が、バリバリと大きく軋んでいく。
「今は、私がギリギリのところで制御している状態なの」
リリアーナは、まるで他人事のように淡々と解説を続ける。
「でも、私が死ぬか、術式を強制停止された瞬間、封印の制御は完全にパージされる。――どうなるか、あなたなら分かるでしょう?」
レオンハルトの表情が、この日初めて、激しい驚愕と焦燥で険しく歪んだ。
「……術が暴走し、枷を失った古代魔獣が……完全な姿で現世に復活する、というのか」
「ええ」
リリアーナは、三日月のように美しく、残酷に微笑む。
「防壁も何もなく、本当に王都が丸ごと消えてなくなるわね」
圧倒的な沈黙。
地下空間の空気が、鉛のように重く沈み込む。レオンハルトの選択肢は、完全に封じられた。リリアーナを殺しても、生かしても、王家の詰みなのだ。
その時だった。
「殿下っ!!」
地下の入口側から、喉を掻き切るような切羽詰まった声が響いた。
一人の騎士が、血相を変えて駆け込んでくる。
「中央結界維持塔より緊急要請です! 瘴気の侵食拡大により、結界制御が限界へ達しています!このままでは、数分と持たずに王都の中心部まで飲み込まれます――」
報告の途中、騎士は魔法陣の中心で黒い瞳を輝かせるリリアーナの姿を見て、恐怖に息を呑んだ。
だが、レオンハルトはもう動じない。
「……結界の現状は」
「は、はい! 教会側が総出で維持にあたっていますが、既に複数区画が崩落! 魔力汚染も市街地へ拡大中です!」
背後で、地響きと共に古代魔獣の咆哮が不気味に響き渡る。
レオンハルトは、リリアーナに向けた剣を握りしめたまま、静かに、深く目を閉じた。
数秒の静寂。
その間、地下空間には古代魔獣の低い唸り声と、王都の崩壊を告げる振動だけが満ちていた。
王太子としての、脳裏に巡る無数の演算。
そして。
「……結界維持を優先する」
低く、重苦しい声が床に落ちた。
騎士が、驚きに顔を上げる。
「殿下……」
「これより地上、教会側へ向かう」
一度決めれば、そこにはもう一切の迷いのない声音だった。
「これ以上の被害拡大を防ぐ。王都防衛を最優先とする」
リリアーナの目が、わずかに細められた。
少しだけ。本当に少しだけ、意外そうに。
「……へえ」
小さな呟き。
レオンハルトは、リリアーナから決して視線を外さないまま、背後の部下たちに矢継ぎ早に命じた。
「リリアーナの監視は継続しろ。地下は完全封鎖。これ以降、私の許可なく誰もこの場所に近づけるな」
「はっ!」
騎士たちが、弾かれたように動き出す。
言い終えると同時に、レオンハルトは躊躇なく背を向けた。そのマントが、地下に吹き荒れる赤黒い突風に激しく揺れる。
「……いいの? 私をこのまま、ここに放っておいて」
リリアーナが、去りゆく彼の背中に静かに問いかける。
レオンハルトは、しかし足を止めなかった。
「お前を止める方法がない以上、今は被害を抑える方が先だ」
冷徹な拒絶。それが彼の残した最後の言葉だった。
地下空間に、軍靴の遠ざかる足音だけがカツン、カツンと響き、やがて完全な静寂が訪れる。
巨大魔法陣の中心。
赤黒い光の檻の中に、リリアーナだけがぽつんと残された。
「……ほんと」
遠巻きに彼女を監視する騎士たちに聞こえないほどの小さな声で呟いた。
「最後まで、”完璧な王子様”なのね」
その声は、憎しみとも、そして哀れみとも取れないものだった。
――ギィィィィィアアアアアアアアアアアアッ!!
その瞬間、主の決別を祝うかのように、古代魔獣が再び咆哮した。
王都全体が、激しく、大きく揺れ動いた




