第63話 祝福された完璧な王太子様⑤
異変が起きたのは、唐突だった。
最初は、微かな地鳴り。
けれど次の瞬間――。
――ゴォォォォォォン……!!
王都全域を激しく打ち鳴らすような、重苦しい轟音が響き渡った。
「っ、何事だ!?」
城壁を見回っていた夜警騎士たちが、一斉に夜空を見上げる。
大気が不気味に歪み、世界の魔力が狂ったように乱高下を始めていた。
まるで、世界の境界そのものが悲鳴を上げているかのように。
美しかった王都の夜空が、見る間に禍々しい赤黒さへと染まり始めていく。
◇
「何が起きている!報告を!」
王城内は、一瞬にして怒号の飛び交う戦場へと化していた。
「地下最深部より、測定不能の異常魔力反応!」
「封印領域の古代術式が暴走しています!」
「結界の出力が急低下!外周部が崩壊寸前です!」
押し寄せる混乱と悲鳴。
城内を未曾有の緊張が駆け抜ける中、その中心で、王太子レオンハルトだけが微動だにせず立っていた。
冷徹な青い瞳が、地下最深部に繋がる廊下の奥へと向けられる。
「……地下旧礼拝堂か」
苦渋をにじませた、低い声。
胸の奥の嫌な予感は的中した。だが、これほどの規模など、流石の彼も想定の枠外だった。
レオンハルトは側近と騎士団を引き連れ、凄まじい魔圧の吹き荒れる地下深くへと駆け下りた。
◇
地下旧礼拝堂――封鎖区域最深部。
レオンハルトが駆けつけた時には、そこはすでに、現世の理が通用しない異界と化していた。
床一面の巨大な魔法陣が赤黒く脈動し、空間そのものがメリメリと音を立てて軋んでいる。
「封印維持が追いつきません!防壁が消失します!」
「未知の召喚術式が展開中!出現対象、確認――ひっ!?」
その瞬間、バリィィィンと空間が硝子のように割れた。
――ギィィィィアアアアアアアアアア!!
人間の本能そのものを呪うかのような、おぞましい絶叫。
獣とも、魔族とも違う。聞いただけで精神が汚染されそうな歪な咆哮だった。
割れた空間の裂け目から、這い出てくる巨大な“何か”。
漆黒の外殻に、蠢く無数の眼球。周囲の空気を腐らせていく圧倒的な瘴気。
「古代……魔獣……」
へたり込んだ解析官の一人が、掠れた声で絶望を呟く。
数百年前にアルヴェルト家が引き起こし、王家がようやく封印したという、国家滅亡級指定の“大災厄”。
それが今、目の前で完全な姿を取り戻そうとしていた。
「あり得ません!」
狂ったように魔導具を叩いていた術式解析官が、悲鳴を上げる。
「召喚術式の構造が異常です!これでは、これではまるで……!」
「どういう意味だ。簡潔に言え」
背後に到着したレオンハルトの鋭い声に、解析官は顔の血の気を完全に失わせながら振り返った。
「……王家側の、管理術式です……!」
「何だと?」
「この召喚陣の核には王家の術式を使われています!!」
解析官が悲鳴のような声を上げた。
「……アルヴェルトの、血統能力か」
レオンハルトの拳がみしりと鳴る。
あらゆる結界を書き換えるという、封印干渉の異能。
リリアーナの能力なら、理論上可能だった。
◇
「殿下!地上より緊急伝令!」
さらなる追い打ちをかけるように、騎士が駆け込んでくる。
「王都各地でパニックが発生しています!“なぜ王家直轄の封鎖区域から、王家の魔力反応を伴った災厄が出現したのか”と、教会も騒然としております……!」
レオンハルトの瞳が、初めて激しく揺れた。
当然だ。ここは一般人が立ち入ることはできない絶対聖域。
そこから国家滅亡級のバケモノが現れ、しかも王家の術式反応が混ざっている。
王家と分権している教会側から見れば、これは『王家が裏でテロを仕掛けた』か、『王家が禁忌の実験に失敗して自滅した』ようにしか見えない。
王家が何百年もかけて築いてきた“完璧な威信”が、音を立てて崩壊していく。
「結界維持班、限界です!王都中央結界、崩壊率三十二%を突破!」
破滅への秒読みが響く中。
レオンハルトは、赤黒く燃え盛る魔法陣の中心へと歩み出た。
光の渦の最奥。
激しい魔力の嵐の中で、一人の少女がぽつんと佇んでいた。
銀髪を静かに揺らし、その表情は驚くほど穏やかだ。まるで、長い長い旅の果てに、ようやく目的地へ辿り着いた人間のように。
「……リリアーナ」
レオンハルトが、その名を低く呼んだ。
リリアーナは、ゆっくりと振り返る。そこには怒りも、焦りも、醜い復讐心すらもなかった。ただ、すべてを終わらせにきた者の、透き通った瞳があるだけ。
魔法陣の光を映した濃紺の瞳は、夜空のように静かに煌めきーーなぜだかセシリアを思い出させた。
「なぜだ。なぜお前単独で、王家術式を使うことができる」
レオンハルトの声は、辛うじて王太子としての威厳を保っていたが、その実、焦燥でひび割れていた。
王家が握っていたはずの主導権が、完全に奪われている。
リリアーナは、小さく、愛らしく笑った。
「簡単なことよ、レオンハルト」
赤黒い光を指先で弄びながら、彼女は歌うように言った。
「あなた達が、親切にずっと私と繋がっていてくれたから」
「……何?」
「おぞましい精神干渉の術式で。あなた達はずっと、王家側の魔力を流し込み続けていたでしょう?」
リリアーナが、最後の一押しとして魔法陣の核へ、そっと触れる。
「だったら、その繋がりを利用してあなた達の魔力を陣のエネルギー供給源にするだけ」
空気が爆ぜた。
王家の魔力を吸い尽くした召喚陣が、最悪の輝きを放つ。
世界を破滅させる古代魔獣が、ついにその完全な巨体を現世へと現し始めた。




