第62話 祝福された完璧な王太子様④
最初から、私は全部知っていた。
優しかったお母様を精神的に追い詰め、壊したのが誰なのか。
王家がその醜悪な罪を隠すために、何をしたのか。
なぜ私が、幼い頃からずっと監視されていたのか。
なぜ王太子の婚約者という名の、逃げられない檻に入れられたのか。
全部、全部、知っていたのに。
王家に抵抗することも、
レオンハルトを憎むことも。
術式のせいで、まともにできなくなっていた。
怖かった。苦しかった。
けれど、その感情さえ脳の奥へ押し込まれて、ただ涙を流すことさえできなかった。
◇
その後、私の精神は歪み、狂っていった。
エドガー。カイル。ユリウス。
彼らとの出会いもまた、私をさらに追い詰めていった。
周囲から向けられる、いわれのない悪意と嘲笑。孤立と敵意。
怒りや憎悪はあるのに、なぜかそれを正しく発散することのできないもどかしさ。
“精神干渉術式”が施されていたにもかかわらず、私の魂は、内側から激しく拒絶反応を起こし続けた。
周囲への激しい攻撃性。
制御の利かない情緒不安定。
醜悪に怒り狂う癇癪。
本来向けるべき場ではないところで溢れ出る、ちぐはぐな感情や行動。
王家はそれを“制御不良”と判断し、さらなる大罪を重ねた。
学園入学前。
より強く、より深く、私の自我をすり潰して都合の良い人形にするための、追加の精神再調整。
――けれど。
それが、王家にとって最大の、そして最後の誤算となった。
◇
頭が割れるような激痛と共に、私の脳内に“異物”が流れ込んできた。
息の詰まるような満員電車。
チカチカと明滅するオフィスの中、夜遅くまで積み上がったデスクの資料。
前世。精神的に成熟したもう一人の、私。
その瞬間、パズルのピースが、恐ろしいほどの速度で噛み合っていった。
「……ああ。そういうこと、だったのね」
すべてを、理解してしまった。
この世界が、前世でプレイした乙女ゲーム『聖銀のレガリア』の舞台であること。
私が、いずれ無様に破滅するはずの“悪役令嬢”リリアーナであること。
王家の術式は、完璧ではなかった。
彼らが抑え込もうとしたのは、あくまで“リリアーナ”の精神だけ。
まさか、術式の負荷によって脳の障壁が壊れ、そこに“現代日本で生きた大人の人格”が丸ごと流れ込んでくるなど、想定できるはずもない。
王家の洗脳など、前世の記憶という圧倒的な濁流の前には、ただの紙切れ同然だった。
呪縛の術式が、内側から粉々に崩壊していく。
押さえつけられていたすべての記憶と、本来の激しい感情が、一気に私のもとへ帰ってきた。
ああ、そうか。
術式が解けた今なら、はっきりとわかる。
これこそが、私の憎しみなのだと。
「だから、思い出した」
私は、暗闇の中で静かに笑う。
「だから、全部分かったのよ。レオンハルト」
◇
地下旧礼拝堂。
王家が何百年も秘匿し、厳重に封鎖してきた禁忌の区域。
灯りのない、冷え切った石造りの廊下を抜けた先。分厚い魔導扉の奥には、カビ臭い石の匂いと、おぞましいほど濃厚な古代の魔力の残滓が漂っていた。
その部屋の最奥。
床一面に彫り込まれていたのは、巨大な古代魔法陣。
異界の魔獣を呼び寄せる、召喚術式。
かつて一晩で都市を消滅させたという、アルヴェルト家の血統にしか起動できない、国家封印級の超遺産。
私はゆっくりと歩み寄り、その魔法陣の中心へ、愛おしむように指先で触れた。
ひやりとした石の冷たさ。
直後、それを完全に塗りつぶすような、凶暴な魔力の脈動が私の血と共鳴する。
キィィィィン、と、鼓膜を刺すような高音が響き、床に青白い光の回路が走った。
――起動。
全身の血液が沸騰するような、凄まじい全能感が脳を焼く。
「ふふ……、あはははっ!」
抑えきれない笑みが、暗い空間に木霊した。
本来のゲーム『聖銀のレガリア』のシナリオ通りなら、悪役令嬢リリアーナは絶望の果てに魔族の手を取り、その力を借りて不完全な召喚テロを起こし、最後は正義の味方に討たれる。
けれど、前世の記憶がある私は見つけてしまったのだ。
魔族の力などという不確定要素を介さずとも、我が身の血だけで、この施設を“完全な状態”で強制起動する、裏の経路を。
だから。
もう、誰にも私を止められない。
世界が破滅の災厄に直面した時、それを阻止できるはずだった『登場人物』は、もう一人も残っていない。
宮廷魔導師を率いるはずだった、エドガーはいない。
騎士団の矛となるはずだった、カイルもいない。
聖なる結界で国を守るはずだった、ユリウスもいない。
そして。
聖女として、この召喚術式を浄化し、無力化する“鍵”の力を持つはずだったヒロイン――ミレイア・ルーンも、もうレオンハルトの側にはいない。
全員、私が裏から糸を引いて、社会的に、物理的に、完璧に使い物にならなくしてあげた。
この日のために。
王家を、この国を、何一つ残さず叩き潰す、この瞬間のために。
ドクン、ドクンと、魔法陣が生き物のように脈動を強めていく。
視界を埋め尽くすほどの膨大な光が、地下空間を、そして城の土台を激しく揺るがしていく。
空気が震える。
世界の境界が、悲鳴を上げて軋みだす。
私は光の渦の中で、静かに目を細める。
「――ようやく、ここまで来たわ」
復讐の幕を上げるその声は、どこまでも静かだった。




