第61話 祝福された完璧な王太子様③
リリアーナが旧礼拝堂へ侵入する、少し前のこと。
激しい雨が王城を叩く夜だった。
レオンハルトは、この一年で起きた数々の事件を振り返りながら、リリアーナに関する追加調査を命じていた。
静かに目を閉じる。
リリアーナ・フォン・アルヴェルト。
愛のない婚約者。
父親に似た、冷たく鋭い顔立ち。
アルヴェルト家直系特有の、白銀の髪。
彼女には――まるで似ていなかった。
唯一、夜空を映したような濃紺の瞳だけが、かろうじて面影を残していた。
せめて、もう少し彼女に似ていれば。
――そう思ったことが、一度もなかったわけではない。
だが結局、どれほど似ていようと、同じ結末だったのだろう。
◇
レオンハルトは、幼い頃から常に“完璧”を求められていた。
王太子として。
次代の国王として。
弱さは許されない。失敗も許されない。
人前で泣くことも、誰かに甘えることも、ただの一度だって許されなかった。
「姿勢が崩れております、殿下」
「魔法制御が乱れています。やり直しを」
「そのような不様な姿、国王陛下に御目文字させるわけにはまいりません」
毎日。
毎日、毎日、毎日。
息の詰まるような鉄の規律の中で、評価され続けた。
完璧な人形でいることだけを求められ続けた。
だからこそ――彼女は、異質だった。
◇
「ふふ、そんなに難しい顔をしなくても大丈夫ですよ、レオンハルト殿下」
鈴を転がすような、柔らかな声。
リリアーナの母――セシリア・フォン・アルヴェルト。
彼女は、冷徹な王宮の空気に、まるで合っていない人だった。
魔法は苦手で、洗練された社交術にも疎い。
涙もろく、感情豊かで、レオンハルトの周囲にいる“完璧な人間”とは程遠い女性。
なのに、不思議と誰もが彼女を好いた。
気難しい使用人たちも、無骨な騎士たちも、腹黒い貴族たちでさえ。
彼女がその場に現れるだけで、凍りついた空気がふわりと和らいだ。
「殿下は頑張りすぎです。たまには息を抜かないと」
そう言って、子供の頭を撫でるように優しく笑う。
周囲の誰もがレオンハルトに“完璧”を強いる中、彼女だけは、そのままの自分を受け入れてくれた。
彼女といる時だけ、失敗してもいい気がした。
生まれて初めて、まともに息ができた。
(……手放したくない。この温もりを、ずっと私のものにしたい)
幼いレオンハルトの胸に宿ったのは、純粋で、それゆえに酷く歪んだ執着だった。
◇
「では殿下、私はこれで失礼いたしますね」
ある日のこと。お茶会を終え、セシリアが公爵邸へ帰ろうとする。
レオンハルトは反射的に、その衣服の裾を掴んでいた。
「……ここにいてください」
セシリアは困ったように、けれど優しく微笑んだ。
「それはできません。私はアルヴェルト公爵家の人間ですから」
そう言って、自分に背を向ける。
彼女の視線の先には、白銀の髪をした一人の少女がいた。
セシリアは彼女を愛おしそうに抱き上げる。
その姿を見て、レオンハルトは生まれて初めて泥濘のような感情が芽生えた。
――公爵家の人間だから、帰ってしまう。
幼い王太子の天才的な頭脳は、恐るべき結論を導き出した。
なら、彼女から公爵家を奪い、帰る場所を無くしてしまえばいい。
◇
そこからの工作は、子供の火遊びにしてはあまりにも完璧すぎた。
使用人の会話をそれとなく誘導する。
偽の証拠を揃え、証言を調整する。
王宮内で重要な物品を紛失させ、その動線上に彼女を配置する。
少しずつ。
本当に、少しずつ。
セシリアへ様々な小さな事件の疑惑が向くように、裏から糸を引いた。
悪意はなかった。
少なくとも、当時のレオンハルト自身は、それが正しい“問題解決”だと信じていた。
公爵家を追放され、行き場を失った彼女を、“保護”という形で自分の側へ置く。そうすれば、彼女は永遠に自分のものになる――ただ、それだけを夢見ていた。
子供特有の純粋な執着と、王太子としての異常な知性。
その二つが、歪な形で結びついた結果だった。
だが、セシリアの心は、王太子の想定よりも遥かに繊細だった。
身に覚えのない疑惑。
社交界で広がる、おぞましい悪評。
そして何より――愛する家族から向けられる、冷ややかな疑心の視線。
あれほど太陽のように明るかった彼女の瞳が、日を追うごとに光を失い、翳っていった。
「……申し訳、ありません……」
そして、セシリアは壊れた。
精神的に完全に追い詰められ、怯え、最後には――自ら命を絶った。
◇
「……想定外だった」
現在、成長したレオンハルトは、静かに目を閉じる。
「少し、脆すぎたな」
今でも罪悪感などない。本気で“彼女の不完全さ”が原因だったと思っている。
彼女は優しかった。だが、あまりにも弱すぎた。
完璧ではない不完全な人間だったから、外圧に耐えきれずに壊れた。
その冷徹な結論だけが、レオンハルトの心に刻まれた。
それ以来、彼はさらに狂気的なまでに完璧を求めるようになった。
不完全な人間は淘汰される。弱さは破滅を招く。
だから、王となる自分は、絶対に完璧でなければならないのだと。
◇
やがて王家は気づいた。
セシリアを自殺へ追い込んだ一連の事件――その絵図を描いたのが、当時まだ幼かった王太子レオンハルトであることに。
当然、公にはできるはずもない。
未来の国父となるべき少年の、あまりにも早熟で異常な不祥事。しかも王族による、血盟たる公爵家への工作。
表へ出れば、王家の威信は完全に崩壊する。
だからこそ、事件は徹底的に隠蔽された。
真相を知る関係者は秘密裏に処理され、記録は全て抹消された。
だが、一つだけ重大な誤算があった。
母の死の真相を探っていた、幼いリリアーナが、王族たちが事件の“隠蔽”を話し合う会話を、偶然にも聞いてしまっていたのだ。
薄暗い扉の向こう。
小さな少女が、両手で必死に口を押さえながら、震えていた。
母親譲りの濃紺の瞳が、底知れぬ恐怖と絶望で激しく揺れていた。
「誰だっ!?」
小さなリリアーナはすぐに見つかり、捕らえられた。
『秘密を知られたからには殺すしかない』
『しかし、彼女はアルヴェルト家の血統だ』
『それならば他に手は……』
こうして、リリアーナ・フォン・アルヴェルトは“最重要監視対象”となったのだ。
暴走の危険を孕む血統の、管理と封じ込めに加え、王家の秘密を知る者の、口封じ。
そして、真相を知った彼女を王家から絶対に逃がさないための、呪縛としての“婚約”。
レオンハルトは静かに、雨が叩きつける窓の外を見つめる。
「……だから、お前は危険なんだ。リリアーナ」
その低い呟きは。
彼女を縛っているのか、それとも、己の過去の罪から目を背けるために言い聞かせているのか。
その横顔からは、何一つ読み取れなかった。
聖銀のレガリアのミレイアは性格がセシリアにそっくりという裏設定があります。




