第59話 祝福された完璧な王太子様①
レオンハルト・ヴァルディアは、静かに書類へ目を通していた。
王城東棟にある、王太子執務室。
広い室内には、紙をめくる音だけが響いている。
「……」
机の上に積まれているのは、公務関係の書類だけではない。
そこには別の報告書も並んでいた。
――リリアーナ・フォン・アルヴェルト。
その名前が記された、極秘の報告書。
「今週分です」
側近の一人が、新たな書類を差し出す。
レオンハルトは無言で受け取り、目を通した。
『学園外外出、三回』
『接触者一覧添付済』
『使用人との接触記録更新』
『単独行動あり』
淡々とした記録。感情のない監視報告。
「……最近、外出が増えているな」
「はい」
側近が静かに答える。
「監視は継続しております」
「そうか」
レオンハルトはそれ以上何も言わなかった。
相変わらず表情はなく、何を考えているのかわからない。
その様子を見て、側近がわずかに迷う。
「……殿下」
「何だ」
「以前から思っておりましたが……」
一瞬だけ言葉を選び、側近は声を潜めた。
「……婚約者だからと言って、そこまで管理する必要がおありなのでしょうか?」
静かな問いだった。
書類を捲る、レオンハルトの手が止まる。
「必要だから管理している。……それに彼女はアルヴェルト家の人間だ」
それだけで十分だと言わんばかりの口調。
側近は小さく息を呑む。
「……ですが、ここ数百年大きな問題は――」
「危険性がないと?」
レオンハルトが視線を上げる。
冷えた瑠璃色の瞳。
「アルヴェルト家の特性は知っているだろう」
「……はい」
側近の顔がわずかに強張る。
古くから王家に仕える者なら、知らない話ではない。
アルヴェルト家――特殊な魔力を持つ、歪なほど強力な血統。
「管理は必要だ。問題が起きてからでは遅い」
レオンハルトは淡白に言うと、また書類に目を落とした。
そこに悪意はない。本当に、当然の判断として言っているだけだった。
◇
次に、レオンハルトは、別の報告書を手に取った。
『エドガー・アルヴェルト失脚』
『カイル・レイナード拘束』
『ユリウス・クラウゼン療養』
『ミレイア・ルーン投獄』
「……」
静かに目を細める。
偶然にしては、あまりにも多すぎる。
しかも全員、リリアーナと深く関わっていた――またはその可能性がある者たちだ。
「……調べは?」
「現時点では、直接関与した証拠は確認されておりません」
「直接……とは?」
「露呈のきっかけを作ったり、事件に巻き込まれたりはしているようです。ただ、いずれも怪しい動きはなく、偶然としか言えません」
「そうか」
レオンハルトは短く返す。
証拠がない以上、断定はできない。それは理解している。
だが、胸の奥に、小さな違和感が棘のように残る。
(本当に、偶然か?)
リリアーナ・フォン・アルヴェルト。
昔から問題ばかり起こしていた令嬢。
感情的で、攻撃的で、扱いづらい女。
――少なくとも、以前はそう認識していた。
だが最近の彼女は、妙に静かだった。
大人しすぎる。まるで中身が別人のようだ。
「……もし、あいつが裏で何かしているのなら」
ぽつり、とレオンハルトが呟く。
「必ず、その罪を償わせる」
それは確信に近かった。
どれほど巧妙に隠そうと、罪はいつか露見する。秩序とはそういうものだ。
だからレオンハルトは、まだ動かなかった。
証拠もなく婚約者を断罪するほど、彼は愚かではない。
「……もう一点、ご報告が」
側近が最後の書類を差し出した。
「何だ」
「リリアーナ様ですが」
一瞬、重い間が空く。
「最近、監視役を複数回、撒いております」
「……何?」
初めて、レオンハルトの完璧な仮面に、ひびが入る。声にわずかな温度が混じった。
「確認されているだけで三度。王宮直属の尾行役が、完全に見失っています」
「理由は」
「不明です。……痕跡すら残っていません」
室内の空気が、じりじりと重くなる。
レオンハルトは報告書を見つめたまま、微動だにしなかった。
監視を撒く。それ自体が異常だった。
これまでのリリアーナは、感情的で、衝動的で、分かりやすかった。
少なくとも、行動の予測はできた。
だが、最近の彼女は違う。
「……何を考えている、リリアーナ」
完璧だったはずの王太子の、焦燥を含んだ呟きだけが、静かな執務室に落ちた。




