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第53話 みんなに愛される心優しいヒロイン⑬

 地下牢獄は、静まり返っていた。

 小さな鉄格子の窓から差し込む光だけが、ぼんやりと室内を照らしている。


「……っ」


 ミレイアは冷たい床の上で膝を抱え、小さく震えていた。

 あれから、一睡もできていない。

 疲弊しきった頭の中は、ぐちゃぐちゃにかき乱されていた。


 自らの筆跡で残してしまった、未来の事件メモ。

 部屋から見つかったという、アルヴェルト公爵家の偽造便箋。

 逃げ場のないあの審問。

 自分を完全に犯罪者として断定していた、神官たちの冷酷な目。


 かつん。


 静寂を破り、硬い石床を叩く澄んだ足音が、廊下の奥から静かに響いてきた。


「……え」


 ミレイアが弾かれたように、涙で爛れた顔を上げる。

 鉄格子の向こう側。

 そこに、一本の乱れもない見事な白銀の髪をなびかせた少女が、悠然と佇んでいた。


「リリィ……」


 リリアーナは表情を一切変えず、静かに牢の奥を見つめている。

 いつも通りの、非の打ち所がないほどに綺麗な顔。

 薄暗い闇の中でも、彼女の銀髪だけが、まるで月光を吸い込んだかのように静かに美しく光を帯びていた。


 感情のまったく読めない、深い夜の瞳。


「……特別に許可をいただいて、面会に来たわ」


 あまりにも静かな声だった。



 重苦しい鍵が開き、リリアーナは泥に汚れるのも厭わずにゆっくりと牢の内部へ入ってきた。


 ミレイアは藁にも縋るような思いで、思わず勢いよく立ち上がる。


「リリィ! リリィ、ねえ!!」


 鉄格子に指をかけ、声を震わせる。


「ねえ、これ……何かの間違いだよね?」


「……」


「だって、知ってるでしょ!? あたし、本当に何も悪いことなんてしてなくて……っ!!」


 涙がまた、堰を切ったように溢れ出す。


「あの公爵家の便箋だって本当に知らないし! あんなの見たこともなくて、誰かが勝手にあたしの部屋に置いたんだよ……!!」


「ええ」


 リリアーナは静かに、優しく頷いた。


「そうでしょうね」


「……え?」


 思いがけない全面的な肯定に、ミレイアの動きがピタリと止まる。


「あなた、嘘をつくのも隠し事をするのも、本当に下手くそだもの」


 リリアーナの声は、どこまでも穏やかだった。まるで、いつもの会話みたいに。


「あなたにはできないでしょうね」


「じゃあ……!」


「でも」


 リリアーナが、冷酷に言葉を遮る。

 そして、酷くゆっくりとした動作で、縋りつくミレイアの瞳を正面から見据えた。


「――周囲は、誰一人としてそうは思わなかった」


「っ……!」


 まるで冷水を浴びせられたように、ミレイアの息が詰まる。


「どうして……」


 血の気の引いた唇から、かすれた声が漏れる。


「どうして、こんなことになったの……? 」


 リリアーナは答えない。

 ただ、静かにミレイアを見つめ続けていた。

 そのあまりにも静謐な視線が、今のミレイアには、世界の何よりも奇妙で冷たく感じられた。


「……リリィ」


 リリアーナが、ゆっくりと首を傾げる。


「何かしら?」


「あなた……もしかして、何か知っているの……?」


 短い、重苦しい沈黙。

 その数秒間が、ミレイアにとっては永遠の地獄のように長く感じられた。


「……どうして、そう思うのかしら?」


 柔らかい、優しい声。けれど、明確な"否定"はしない。

 その事実が、ミレイアの胸の奥に、得体の知れない悍ましい恐怖を植え付けた。


「だって……」


 ミレイアの喉が震える。


「リリィ、あたしに『周囲を納得させる結果を見せればいい【って言ったよね……」


「焦るあたしに、『一緒に頑張ろう』って優しくしてくれて……」


「あたしのために、特訓のメニューを考えて、いっぱい助けてくれて……」


 そこまで言葉を並べ立てた、まさにその瞬間。

 ミレイアの顔から、さぁっと血の気が引いていった。


「……あ」


 繋がってしまった。

 脳裏で、これまでのすべての違和感が、最悪のパズルとなって一本の線に繋がってしまった。


 がむしゃらにやっていた日々の努力。

 レオンハルトに接近するよう、背中を押された数々の言葉。

 聖女候補としての立場を失うかもしれないという、底無しの焦り。

 あの審問の場。

 そして、未来予知の罠。


 全部、最初から何もかも、“追い込まれていく方向”へ誘導されていた。


「……なんで」


 大粒の涙が、ポロポロと頬を伝って冷たい床に零れ落ちる。


「なんで、こんな酷いことするの……? あたしたち、一緒に……っ」


 その時だった。


「……ふ」


 暗闇の中に、小さく、鈴の鳴るような笑い声が響いた。

 リリアーナが、顔を伏せている。


「ふ、ふふっ……」


 彼女の美しい華奢な肩が、小刻みに、愉しげに震えていた。

 抑えようとしても、どうしても堪えきれないとでも言うように。

 少しずつ笑いが彼女の口元から漏れ出していく。


「……こんなに上手くいくなんて、ね」


 ぞくり、とミレイアの背筋に、これまでにない強烈な悪寒が走った。

 それは、これまで一緒に過ごしてきて、一度たりとも見たことのないリリアーナの顔だった。

 作ったような表情筋の動きではない。もっと、魂の深い深い暗黒の底から湧き上がってくるような、本物の"愉悦"に満ちた最悪の笑み。


「あぁ、本当に嬉しいわ」


「リリィ……? 何を言ってるの……?」


「あなた、本当に優しくて素晴らしい子だったもの、ミレイア」


 リリアーナは、ゆっくりと顔を上げた。その顔には、邪悪なほどに美しい微笑が浮かんでいる。


「まっすぐで、善人で、中身はただの子供で」


「他人を疑うこともせず、最後まで私の言葉を信じ切っていた」


「だから、とても簡単だったわ」


 淡々とした、けれど無慈悲な声。


「……じゃあ、あたしと初めて会った時から……全部わざとだったの?」


「いいえ」


 リリアーナは小首を傾げ、美しく微笑む。


「エドガーの時からよ」


「……え」


 ミレイアの脳裏に、いつかリリアーナが語ったを過去の話を思い出す。

 善意で動いて、人を不幸にしてしまった、というあの悲劇の告白。


「あれも……エドガーやカイルの破滅も、全部あなたが……?」


「そうよ」


 リリアーナの口元が、三日月のようにゆっくりと、歪んでいく。


「なんで……なんでそんなこと……」


「あなたには、一切関係のないことよ」


「じゃあ、あたしは……!? あたしこんな酷いことされるほど、何か悪いことしたの!?」


 叫ぶミレイアを、リリアーナはただ、冷たい目で見下ろす。


「ただ、邪魔だったのよ」


「……っ!」


 ぞわり、と心臓が凍りつく。


「私と同じ転生者であるあなたは」


 リリアーナの声音から、一切の温度が消え失せる。


「これからの私の計画にとって、ただただ、不確定要素でしかない邪魔な存在だった。だから、排除した。ただそれだけのことよ」


「そんな……嘘でしょ……」


 ミレイアはガタガタと歯の根が合わないほどに震えていた。


「……だって、あたしたち、友達だったじゃん!」


 今にも壊れそうな、悲痛な叫び。

 リリアーナは、静かに、酷薄に目を細めた。


「ごめんなさいね」


「――私は一度たりとも、あなたを友達だと思ったことはないわ」


「っ――あ、う、ぁ……!」


 ミレイアの顔が、絶望で激しく歪む。

 言葉にならない嗚咽と共に、涙がぼたぼたと、冷たい石の床へと虚しく落ちていった。


 リリアーナは踵を返し、一切の未練もなく牢の出口へと向かった。

 その背中は、歩みの最中、一度たりとも揺れることはなかった。


 そして、鉄扉を抜けるまさにその刹那、最後に一度だけ、彼女は振り返り――この世の何よりも綺麗に、優雅に微笑んだ。


「今までありがとう、聖女様」



 無慈悲な音を立てて牢の扉が閉まり、ミレイアはその場へ糸が切れた人形のように崩れ落ちた。


 振り返ってみれば、違和感はずっとあったのだ。

 リリアーナという存在と深く関わるたび、自分の周囲が、確実におかしくなっていった。

 偶然とは言えないくらいに。


「……リリィ」


 ミレイアは小さくその名前を呟いた。


 最初に中庭で会った頃のリリアーナは、もっと砕けた話し方をしていた。

 時々、妙に気安くて。まるで、自分と同じ"現代日本"の世界からやってきた人間としての、親しみやすさがあった。


 でも。時間が経つにつれて、彼女は少しずつ変わっていった。

 まるで本物の、完璧な公爵令嬢になっていった。


 かつて、リリアーナに言われた言葉を思い出す。


『ミレイアって、前世の人格や価値観がかなりそのまま残っているのね』


 その時は、深く考えもしなかった。

 でも、今なら分かる。


 自分は、前世の甘ったれた女子高生の人格のまま、この世界を生きていた。

 けれど――リリアーナは違ったのだ。

 彼女は、前世の記憶という名の"知識"を思い出しただけで。

 その魂は、とっくに、この世界に生きる本来の“リリアーナ・フォン・アルヴェルト”へと戻っていたのだ。


「……リリィ」


暗闇の牢獄に、震える、絶望に満ちた声が漏れる。


「あなたは……最初から、本物の"悪役令嬢"だったんだね……」



ミレイア編、完結です。ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。


次回からは5話にわたる種明かし編となり、その後はいよいよ最終章へ続きます。


本章のラストが、良い意味でも悪い意味でも皆様の心に何かを残せていたなら、ブックマークや評価、感想などをいただけるととても嬉しいです。

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