第50話 みんなに愛される心優しいヒロイン⑩
魔物襲撃事件から、一夜が明けた。
学園全体はいまだに深い動揺と混乱を引きずり、落ち着きを取り戻せてはいなかった。
学園を守っていたはずの結界は破られ、
魔物は、生徒たちのいる校舎内部へ侵入した。
精鋭の結界班や騎士団が常駐するこの学園において、本来なら、あり得ないはずの異常事態だった。
◇
「リリアーナ様、お加減はいかがですか? 」
リネットが、青ざめた顔で寝台の傍らに立ち、心配そうに声をかけてくる。
「心配いらないわ」
私は天蓋付きのベッドの上で上半身を起こし、静かに答えた。
衣服の隙間から覗く脇腹には、いまだに鈍い重痛みが、かすかな違和感となって残っている。
だが、魔獣の爪によって肉を抉られ、内臓にまで達しかけていたはずの致命傷は――信じられないことに、痕跡すら残さず驚くほど綺麗に塞がっていた。
――ミレイアが放った、あの奇跡の治癒魔法。
目を閉じれば、昨日の夕暮れの光景が鮮明に脳裏へと蘇る。
血まみれの私を抱きしめ、大粒の涙を流しながら、必死に魔力を流し込んできた彼女の姿。
(……私の予想を、遥かに超えていたわね)
まさか、あんなに強力な治癒魔法をを使えるなんて。
シーツの上で、少し笑みが溢れた。
◇
一方、その頃ミレイアは、神殿の高位関係者たちに厳重に取り囲まれていた。
「……もう一度、確認させていただきます」
重々しい沈黙を破り、豪奢な神官服を纏った年配の神官が、声音を低くして静かに口を開いた。
「貴女が、その手に持つ杖だけで、あの場に倒れていたリリアーナ様を治癒したのですね?」
「は、はい……そうです……」
ミレイアは周囲の威圧感に気圧された様子で、小さく肩を丸めて頷く。
「現場の状況や目撃者の証言から、リリアーナ様の負傷は、一刻を争う極めて深い致命傷だったと報告を受けています」
「……」
「それを、神殿の聖水や魔導具の補助すら一切なしに、貴女がたった単独で完全に治癒した。間違いありませんか?」
「……はい」
「どうやって?」
「その……あの時は本当に必死だったので……細かいことは、あんまり覚えてなくて……」
応じる彼女の声は、今にも消え入りそうなほどに弱々しい。
当然だろう。彼女の顔色は、昨日からほとんど回復しておらず蒼白だった。
あれだけの途方もない魔力を一気に出し切って空っぽにしてしまえば、今こうして椅子に座っていられること自体が奇跡に近いのだ。
「ですが」
机を挟んで向かい側に座る別の神官が、不愉快な音を立てて手元の書類をめくる。
「貴女は、つい先日の国家祈祷演習において、神殿の基礎的な術式維持すら不安定だった」
「っ……!」
「光魔法の出力バランスにも、素人以下と評されるほどの大きな波が見られていたはず」
ミレイアの小さな肩が、恐怖でびくりと小さく震える。
「それが突如として、最高位神官を超えるレベルの治癒魔法を、成功させた」
「……」
「失礼ながら、あまりにも不自然極まりないとは思いませんか?」
室内の空気が、わずかに重くなる。
そこは、冷徹な石造りの特別審問室。窓が一つもない密室の壁際に、純白の衣装に身を包んだ神官たちの一団が、まるで彼女を断罪するかのように冷酷な半円を描いて並んでいる。
まだ十代の少女にとっては、息をするのも苦しいほどの、逃げ場のない完全な檻のような空間だった。
ミレイアは激しい圧迫感に怯え、困ったように大きな瞳を左右へと彷徨わせた。
「で、でも……実際に、治ったし……あたしがやったのは本当です……!」
「ええ、そこを疑っているわけではありませんよ」
年配の神官は、表情を一切崩さずに静かに頷いた。
「問題は、結果ではなくその方法です」
「……え?」
「貴女がこれまで学園で見せていた魔力の性質と、今回の異常な出力の跳ね上がりに――まったく、整合性が取れないのです」
「……」
ミレイアは唇を噛み締め、それ以上何も答えられなくなる。
当然だ。前世のゲーム知識しか持たない彼女には、自分自身の身体に起きた「主人公の覚醒イベント」の理論的な説明など、できるはずがなかった。
「加えて」
別の神官が、氷のような口調で新たな事実を突きつける。
「貴女は魔物の襲撃時、避難経路から外れた位置にいた」
「っ……」
「さらに言えば、結界が外部から損傷させられた"最初の発生地点"に、極めて近い場所で発見されている」
「そ、それは……リリィに誘われて、たまたまそこにいただけです……!」
「さらに不自然なのは周囲の証言だ。現場近くにいた者たちの話では、貴女たちが襲撃された際、貴女の近くに迫っていた魔物が、不自然に攻撃を止めて一時撤退したとも報告されている」
ミレイアの顔から、血の気が引いていく。
「普通なら、凶暴な魔物が標的を前にして突然引き返すことなどあり得ません。……誰かに命令されない限り」
「……」
「実際に、逃げ遅れた多数の生徒が重軽傷を負う中で、前線にいたはずの貴女だけが、掠り傷一つなく無傷で生還している」
「……偶然、じゃ駄目ですか……?」
彼女の口から漏れたのは、か細い声だった。
「必死だったから……たまたま上手くいっただけで、何も変なことなんて……」
誰も、すぐにはその必死の訴えに答えなかった。
「現時点では、あくまで状況の確認段階です」
目の前の神官は、感情の籠もらない声音で淡々と事実を告げる。
「ですが、説明のつかない不自然な点が多すぎる」
「よって、王家および神殿の合同で、貴女に対する正式な『国家禁術監査審問』を行う必要があると判断されました」
深い静寂。
ミレイアは頭を殴られたかのように、しばらくの間、呼吸の仕方も忘れたように言葉を失っていた。
「……あたしが? 」
かすれた、震える声。
やはり、並び立つ神官たちの誰もそれに応じることはない。
その残酷な沈黙そのものが、すでに彼女への明確な答えだった。
◇
その頃。閉ざされた特別審問室の扉の外、誰もいない薄暗い廊下で。
私はそっと目を閉じた。
(――始まったわね)
冷たい石壁にそっと背中を預けながら、私はそっと唇の端を吊り上げた。
ここから先は、もう誰にも止められない。
ミレイアはまだ、自分の身に起きている最悪の事態にすら気づいていない。
世界の主人公であったはずのあなたが今、疑念の底へと落ち始めていることに。




