第49話 みんなに愛される心優しいヒロイン⑨
「……っ、ぁ……」
息が、上手くできない。
涙で視界が滲む。
鼻腔を突き刺す、生々しく鉄錆びた血の匂い。
冷たい石床の上へ無残に倒れ込んだリリアーナの姿を見て、
ミレイアの頭は文字通り真っ白になっていた。
「リ、リリィ……? 」
何度名前を呼んでも、返事すら返ってこない。
彼女の着ている貴族科の制服が、傷口から溢れ出る鮮血によって、じわじわと禍々しい赤黒い色へと染まっていく。
暴れていた魔物自体は、遠くで駆けつけた防衛騎士達によってすでに討伐されていた。
だが、あまりの混乱と最優先の避難誘導のせいで、二人のいる場所には誰も助けにやってこない。
ここは学園の外周区画。
無残に崩れ落ちた石壁の隙間から、傾いた夕陽が差し込み、薄暗い廊下には不気味に長い影が伸びていた。
そこに残されているのは、血だまりの中に倒れたリリアーナと、その傍らで震えるミレイアだけだった。
「や、やだ……嘘……っ」
リリアーナの血に触れたミレイアの両手が、痙攣するように激しく震えだす。
「ダメ……っ、しっかりして! 目を開けてよ、リリィ!!」
さっきまで、いつも通り普通に楽しく話していたのに。
あたしの身代わりに、あたしを庇ったせいで。
「誰か……っ! 誰か来てください!! 助けて!!」
声を限りに叫ぶ。けれど、返ってくるのは虚しい反響音だけ。
近くには、人の気配すら全く感じられなかった。
「っ……!」
ミレイアは涙でぐしゃぐしゃの震える手で、リリアーナの身体へそっと触れる。
肌はまだ、確かな熱を持って温かい。
でも。傷口から流れ出る真っ赤な血は、一向に止まる気配がなかった。
「どうしよう……どうしたらいいの……っ」
恐怖とパニックで、頭が完全に破裂しそうになる。
すぐに走って神官を呼びに行くべき?
それとも、ここから動かずに教師を探す?
でも、もし自分が目を離した隙に、間に合わなかったら。
もし、このまま彼女が――。
「……嫌だ」
ぽろり、と彼女の瞳から大きな涙の粒が落ちた。
「そんなの、絶対嫌だよ……!!」
リリアーナは、周りが言うような人なんかじゃなかった。
いつも厳しく突き放すような物言いはしたけれど。
自分のあまりの無作法さに、何度も深く呆れ果ててはいたけれど。
でも。彼女はどんな時も、決して自分を見捨てたりはしなかった。
周りから孤立して空回りしても。
祈祷演習で無様に大失敗をしても。
いつだって、隣にいてくれたのはリリアーナだった。
「リリィ……っ!!」
涙が、堰を切ったように止まらない。
ぐしゃぐしゃに歪んだ顔のまま、それでも彼女の左手をぎゅっと握り締めた手だけは、絶対に離せなかった。
これは自分への報いだ、と彼女は言った。
ずっと、ずっと自分を責め続けていたんだ。
みんなを不幸にしたこと。リリアーナのせいじゃないのに。たった一人で。
あたしは、彼女のそんな苦しみに何も気づいてあげられていなかった。
原作を知っているからって、何でも分かったつもりになって。
ただ、彼女の優しさに甘えていただけだったんだ。
その時だった。
ふいに、ミレイアの頭の奥深くで、何かが猛烈な熱を持ち始めた。
「……っ!」
脳裏をパッと貫くような、圧倒的に眩い感覚。
彼女の心臓がこれまでにないほど大きく跳ねる。
ミレイアは魂の命令に従うように、反射的にその手に白い杖を強く握り直した。
「……光よ」
喉の奥が震える。
体内の奥底から、かつてないほどの濃密な魔力を杖へと流し込んでいく。
また失敗するかもしれない。
今までみたいに、上手く制御できずに弾けてしまうかもしれない。
でも。
「お願い……!!」
ボロボロと大粒の涙を床へ零しながら、ありったけの祈りと魔力を、その傷口へと注ぎ込む。
「――あたしの大切な友達を、助けて……!!
その瞬間だった。
周囲のすべてを覆い尽くすほどの、圧倒的に眩い光がその場に溢れ返った。
それは、これまでの演習では一度も出たことのなかった――神々しいまでの、純白と淡い金色の輝き。
「――っ!?」
魔法を放ったミレイア自身が、驚愕にその目を大きく見開いた。
今まで練習してきた魔法とは、次元が、密度が、まるで何もかもが違いすぎる。
身体の奥から無限に湧き出す、膨大な光の奔流。
あまりにも温かな慈愛の魔力。
その淡い金色の輝きが、リリアーナの引き裂かれた悲惨な身体を、優しく、包み込むように覆っていった。
すると、あれほど溢れ出ていた真っ赤な血が、嘘のようにピタリと止まる。
深く縦に裂けていた右肩から脇腹の皮膚が、生き物のようにゆっくりと細胞を結び、綺麗に閉じていく。
「……え」
ミレイアの喉から、掠れた声が漏れた。
本当に、傷口がみるみるうちに治癒していく。
神殿の高位神官ですら不可能な奇跡が、今、自分の紡いだ魔法の手によって引き起こされている。
「リリィ……!」
彼女は泣きじゃくりながら、何度も必死にその名前を呼び続けた。
すると。
「……うるさい」
掠れた声が返ってきた。
「っ――!」
ミレイアの絶望に染まっていた顔が、一気にパッと明るく輝き出す。
「リリィ!?」
「……大声、出さないで……」
「生きてる……! 傷が治って、ちゃんと生きてるよ……っ!!」
「……当たり前でしょう。あなたをおいて、簡単に死んでたまるものですか……」
弱々しく、今にも消えそうな声。
けれど、その夜空のような濃紺の瞳には、確かに光が戻っていた。
「よかったぁ……っ! 本当によかったぁぁ……っ!!」
ミレイアは緊張の糸が切れたように、その場に崩れ落ちるようにして子供のように大声を上げて泣き出した。
心底から安堵した、まさにその瞬間だった。
ぐにゃりと、急激にミレイアの世界の視界が大きく揺れ動いた。
「あ、れ……? なんだか、急に……」
全身の関節から一瞬にして力が抜け落ちる。
指一本動かせないほどに、身体が鉛のように重い。
「ミレイア……?」
異変に気付いたリリアーナが、ゆっくりと体を起こした。
「なんか……ちょっと、これ、やばいかも……」
身体の奥の魔力タンクが、完全に空っぽになっていた。
リリアーナを救いたい一心で、自分の限界値を遥かに超えた魔力を、一滴残らず全て絞り出してしまったのだ。
もはや立っていることすら満足にできない。
「……馬鹿ね」
リリアーナが呆れたように、小さく呟く。
「自分の許容量を超えて、限界まで魔力を使いすぎよ」
「だってぇ……」
言い返そうとしたものの、言葉は途中で途切れ――。
そのまま、ミレイアの小さな身体がぐらりと力なく横へと傾いた。
「っ」
地面へ倒れ伏す直前。
リリアーナが彼女の身体を、優しくその胸へと抱き止めた。
「……本当に、無茶するんだから」
静まり返った廊下に、ぽつりと、掠れた優しい声が落ちる。
崩れた校舎の隙間から、夕暮れの最後の光が、静かに二人を包み込むように照らしていた。
柔らかな光の中に、ぼんやりと二つの影が重なっている。




